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気になる外資系企業の動向、通訳・翻訳業界の最新情報、これからの派遣のお仕事など、各業界のトレンドや旬の話題をお伝えします。

成田あゆみ先生のコラム 『実務翻訳のあれこれ』 1970年東京生まれ。英日翻訳者、英語講師。5~9歳までブルガリア在住。一橋大大学院中退後、アイ・エス・エス通訳研修センター(現アイ・エス・エス・インスティテュート)翻訳コース本科、社内翻訳者を経て、現在はフリーランス翻訳者。英日実務翻訳、特に研修マニュアル、PR関係、契約書、論文、プレスリリース等を主な分野とする。また、アイ・エス・エス・インスティテュートおよび大学受験予備校で講師を務める。

第34回:Stay hungry, stay foolishの訳は「ハングリーであれ、愚かであれ」なのか?

スティーブ・ジョブズが亡くなってから、スタンフォード大学の卒業式での彼のスピーチがクローズアップされています(こちら)。

私も何年か前に教えてもらい、パソコンの前で泣きました。
このStay hungry, stay foolishの訳は2011年10月末現在、「ハングリーであれ、愚かであれ」(または「馬鹿であれ」)が定着しているようですが、この訳はちょっと違うと思うのです。そこで今回は、このスピーチをしめくくる言葉の良い訳について考えてみたいと思います。

(初めに白状しておきますと、これぞという訳には至りませんでした。すみません・・・)

☆ ☆ ☆

「ハングリーであれ、愚かであれ」という言葉は、このスピーチが引き合いに出される割には、言及されることが少ない気がします。
やはり、この訳だとぴんと来ないからなのでしょう。
(でも、この部分がスピーチで最も感動的であることが意図されているのは、スピーチの様子を見ても明らかです。)

予備校で受験生とこの話題になったとき、「これって猪木とは違うんですよね?」と聞かれました(詳細はこちら)。
ええ、違うと思います(笑)。でも、どういう意味なのかと言われると、一言で説明するのはとても難しいことに気づきます。
そのときは「スティーブ・ジョブズは、人が当然だと思っていること(例えば音楽業界の仕組み)を疑い、それを変えてきた人なのだから、ここのstay foolishは『大人しくなるな、いい子になるな、分別くさくなるな』」みたいな感じだと私は思っている」と答えました。

また、hungryも「ハングリー」とはちょっと違う気がします。
「ハングリー精神」は(1)ギラギラした成功を夢見て、(2)何もないところから這い上がる、という意味だと、私は認識しています。
(2)はいいとして、(1)はこのスピーチの趣旨に合わないと思います。


スピーチの中にもある通り、Stay hungry, stay foolishは、Whole Earth Catalogという本の最終号の裏表紙にある言葉です(こちら)。
この本はなぜか実家にあったので、よく覚えています。巨大(おそらくA3の倍)なので本棚から飛び出しているというのもありますし、子供心にとても不思議なオーラを出している本でした。ただし中身はちんぷんかんぷんでした(笑)。レトロなイラストが好きで眺めたりしていましたが、何の絵なのかよく分からないものがけっこうあったように記憶しています。
この本は、高度資本主義社会に背を向けて自給自足を志向する人たちのためのカタログだったことを、今回知りました。道理で、バブル前夜に見ても意味不明だったのでしょう。

そういう本の終刊号の締めくくりの言葉であるStay hungry, stay foolishです。この言葉が本当に意味するところを理解するには、ヒッピー文化を知る必要があるのかもしれません。

でも、このスピーチは、ヒッピー文化を知らなくても十分に感動的です。
それに、Whole Earth Catalogに載っているときのStay hungry, stay foolishはヒッチハイクのロードムービーのような無鉄砲な明るさがありますが、ジョブズ氏のスピーチに引用された時点で、この言葉は別の次元のものになった感じがします。
ヒッピー文化に発祥があることは、あまりこだわらなくてもいいのかもしれません。

そこで改めてyoutubeでスピーチを見直してみると、実はこのスピーチはとても練られていて、Stay hungry, stay foolishを言い換えと思われる表現がいくつか出てきました。
以下、それらを拾ってみます。


5:21
... because believing that the dots will connect down the road will give you the confidence to follow your heart, even when it leads you off the well-worn path.
And that will make all the difference.
(将来、点と点がつながるのだと信じることで、自分の心に従おうという自信が生まれるからだ。たとえそのせいで、皆が行く道から外れることになるとしても。
そうすることで、すべてが変わってくるのだ)

「たとえ圧倒的多数のやり方から外れることになったとしても、自分の心に従うこと」。
これを言い換えたのがstay foolishなのでしょう。
「愚かである」とはかなり違います。


7:14
I didn't see it then, but it turned out that getting fired from Apple was the best thing that could have ever happened to me. The heaviness of being successful was replaced by the lightness of being a beginner again, less sure about everything. It freed me into one of the most creative periods of my life.
(当時は分からなかったが、アップルを首になったのは、自分の人生においてこれ以上望みようがないほど最高の出来事だった。成功という重荷がなくなり、もう一度ビギナーになるという軽やかさに取って代わった。物事を知らない状態に戻ったのだ。私はこうして、人生で最もクリエイティブな時期に突入した)

成功、それも世界的な大成功を白紙に戻して、何も知らない状態からやり直す。それこそが人生で最良の展開である----これがhungryやfoolishの意味するところなのでしょう。
となると、hungryにしてもfoolishにしても、単なる「ハングリー」「愚か」よりもはるかに激しい意味を持つことが分かります。


8:27
このあたりから、スピーチはすごみを増してきます。
Your work is going to fill a large part of your life, and the only way to be truly satisfied is to do what you believe is great work. And the only way to do great work is to love what you do.
If you haven't found it yet. Keep looking. And don't settle.
(仕事というのは人生の大きな部分を占めることになる。だからこそ、真に満足するには、素晴らしいと自分が思える仕事をするしかない。そして、素晴らしいと自分が思える仕事をするには、仕事を心から好きになるしかない。
まだそんな仕事にめぐり会っていないなら、探し続けること。立ち止まってはいけない

下線部のitは直前のwhat you doを受けています。
このwhat you doは直訳だと「あなたがすること」、転じて「仕事」の意味です(英語の自己紹介でWhat do you do?と問われたら、それは仕事を聞いています)。
したがって、下線部は「心から好きと言える仕事にまだ出会っていないなら探せ、ぐずぐずするな」という感じになります。
これもStay hungry, stay foolishの言い換えでしょう。

(なお、ここのloveという言葉は単なる「愛する」よりもはるかに強く、「自分のすべてを注ぎ込む」くらいのことを言っていると思います。
loveに限らず、ジョブズ氏の言葉は一語一語はシンプルですが、訳してみると激しさを感じます。)


9:47
膵臓がんの手術を受けたことを話し、会場が静まりかえっています。
... because almost everything, all external expectations, all pride, all fear of embarrassment of failure ---- these things fall away in the face of death, leaving what is truly important. Remembering that you are going to die is the best way I know to avoid the trap of thinking you have something to lose.
You're already naked. There is no reason not to follow your heart.
(なぜなら、ほぼすべてのもの……自分以外の人からの期待、自分のプライド、失敗して恥をかくのが怖いなど……こういったものは死を前にすると消え去り、本当に大事なことだけが残るからだ。自分は必ず死ぬのだと忘れずにいることは、「自分には失うものがある」という思考の罠にはまるのを防ぐ最良の方法だと思う。
あなたはすでに裸なのだ。自分の心に従わない理由など何もない

follow your heartは5:21に続けての登場です。このスピーチのキーワードであり、stay hungry, stay foolishの言い換え表現とみてよいでしょう。
また、この文脈では、follow your heartは「思いつきで生きる」「まったり過ごす」ではなく、「自分の信念を通すためならどんな衝突もいとわない」という激しさがあるように思います。


12:30
この言葉のあと、Whole Earth Catalogの話に移行します。全部に下線を引くほど、hungryとfoolishの言い換えになっています。

Your time is limited, so don't waste it living someone else's life. Don't be trapped by dogma, which is living with the results of other people's thinking. Don't let the noise of others' opinions drown out your own inner voice. And most important, have the courage to follow your heart and intuition. They somehow already know what you truly want to become. Everything else is secondary.
(人生には限りがある。だから、他人の人生を生きることで自分の人生を無駄にしてはいけない。他人が考えたことの結果に盲従することをドグマと言うが、ドグマにとらわれてはならない。他人の意見に、自分の内なる声がかき消されることがあってはならない。そして最も大切なことは、自分の心と直観に従う勇気を持つことだ。あなたの心は、あなたが本当は何になりたいのか、なぜだか分からないがすでに知っている。それ以外のことはすべて二次的なのだ)

☆ ☆ ☆

蛇足と知りつつまとめると、
hungry:
過去の成功を捨てること。身軽でいること。心から好きなことを見つけるまで立ち止まらないこと。自分には何もないと自覚すること。自分の心と直観に従うこと。

foolish:
多数派の信じることに反してでも、自分の心に従うこと。成功を捨ててゼロからやり直すこと。本当に好きなことを見つけるまで立ち止まらないこと。他人の人生を生きないこと。ドグマにとらわれないこと。

・・・と整理できますが、これを一言で表すのは本当に難しいです。
「満たされるな、分別くさくなるな」あたりかなと思うのですが、語呂が悪いし、激しさも足りない気がします。
「満たされるな、いい子になるな」だと品格が足りない。難しいです。
いっそfollow your heartの訳を持ってきて「自分の心に従って進め」とする案もあります。でもたいていの日本人は原文が2つの命令文からなることは知っているので、これだと離れすぎだと思うことでしょう。

誤訳が定訳として広まる例もありますし(例:帝王切開)、あえて少しずらした訳をすることで原文よりも翻訳のほうが印象深くなることもあります(例:星の王子様)。
「ハングリーであれ、愚かであれ」も「実は誤訳らしい」という言葉とともに定着するのかもしれません。

第35回(最終回):翻訳は何に例えられるか?

第34回:Stay hungry, stay foolishの訳は「ハングリーであれ、愚かであれ」なのか?

第33回:ISS翻訳カフェ:社内翻訳者座談会より

第32回:8/25開催「仕事につながるキャリアパスセミナー~受講生からプロへの道~」より

第31回:翻訳は男子一生の仕事となりし乎?

第30回:フリーランス翻訳者、PTA役員になる

第29回:翻訳者就活Q&A

第28回:「頑張れ」を英語で訳すと?

第27回:アラサーのあなたへ

第26回:ラテン英語入門・後編

第25回:ラテン英語入門・中編

第24回:ラテン英語入門・前編

第23回:海野さんの辞書V5発売!!+セミナー「新たに求められる翻訳者のスキル」(後編)

第22回:セミナー「新たに求められる翻訳者のスキル」(前編)

第21回:愛をこめて引き算をする

第20回:点について、いくつかの点から

第19回:翻訳Hacks!~初めて仕事で翻訳することになった人へ~

第18回:修羅場について(子が熱を出した編)

第17回:初心者に(も)お勧め・英日翻訳の技法本3冊

第16回:英日併記されたデータから、原文のみを一括消去する方法

第15回:翻訳者的・筋トレの方法(新聞の読み方、辞書の読み方)

第14回:原文の何を訳すのか?

第13回:むかし女子学生だった者より

第12回:『ワンランク上の通訳テクニック』連動企画(笑):Q&A特集

第11回:読書、してますか? (無料診断テストつき)

第10回:伝える意志のある言葉~インド英語入門・後編

第9回:インド人もびっくり?! インド英語入門・中編

第8回:Listen until your ears bleed! ~インド英語入門・前編

第7回:翻訳者の時間感覚

第6回:翻訳と文法

第5回:翻訳と受験和訳、二足のわらじ

第4回:辞書について(2)~アナログの効用

第3回:辞書について

第2回:順境のとき、逆境のとき

第1回:はじめまして

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