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徳久圭先生のコラム 『中国語通訳の現場から』 武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。出版社等に勤務後、社内通訳者等を経て、フリーランスの通訳者・翻訳者に。現在、アイ・エス・エス・インスティテュート講師、文化外国語専門学校講師。

第2回:人到中年當翻譯──遅咲きでもだいじょうぶ

私が実質的に通訳者として稼働し始めたのは、四十歳になった頃でした。『論語』に「四十不惑(四十にして惑わず)」という言葉がありますが、私は四十歳になっても惑いっぱなしで、中年に差し掛かってようやく「駆け出し」たわけです。でも逆にいえば通訳者という仕事は何歳になっても始めることができ、そして何歳になっても定年のない仕事だともいえます。

同じ『論語』には「三十而立(三十にして立つ)」という言葉もあります。孔子は三十歳で自らの学問の基礎を固めて独立したそうですが、私は基礎を固めるも何も、実はその歳から中国語を学び始めたのでした。通訳者といえば外語系の大学や学部でその言語を専攻した人がなるもの……とは限らず、しかも私のような超遅咲き(この時点ではまだ咲いてもいませんが)もいるのです。そして他の言語では分かりませんが、中国語の通訳翻訳業界に限っていえばこの遅咲き、ないしは異業種からの参入型という方は比較的多いような気がします。

当時小さな出版社に勤めていた私が中国語を始めたきっかけは、三国志やカンフー映画が好きだったわけでも、中国の政治や文化に興味があったわけでもなく、単なる趣味としてです。英語以外で何か語学をやってみたい、中国語なら漢字を使っているから学びやすいだろうと思ったのかもしれません(同じ漢字でも発音がまったく異なるため、日本人にはかえって学びにくい言語だと知ったのは後からです)。

それでも、学び始めてみると中国語の音の美しさに魅了され、たちまち「ハマって」しまいました。その後もサラリーマンを続けながら夜間の語学学校に通い続け、とうとう留学するために会社を辞める決意をするまでになりました。

幸いなことに中国政府の奨学金をいただくことができ、天津市にある南開大学に留学しました。中国政府の奨学金は、基本的に大学や大学院で学ぶ学生や研究者のためのものですが、若干の社会人枠も設けられています。現在はともかく、当時は日本と中国の経済格差もまだ大きかった中、それでも一定の条件を満たして試験をパスしさえすれば、私のような社会人も無償で留学させてくれたわけです。このあたり、古きよき中国の「大人(たいじん)」的な風格を感じます。

それまで一介のサラリーマンとしてあくせく働いてきた私にとって、留学生活はまさに「人生最良の日々」でした。でも、せっかく脱サラまでして留学し、なおかつ中年の域に達しつつあった私は、今さら「青春をエンジョイ」しようとは思っていませんでした。何が何でも中国語を話せるようになりたい。そのために、いくつかのタスクを自分に課しました。

そのひとつが「日本語を使わないこと」です。留学生宿舎は二人部屋だったのですが、最初に「日本人以外の留学生と同室にして」と頼みました。そのおかげでルームメイトはスウェーデン人、そののち韓国人。二人とも日本語は解さないので、お互いの共通語は中国語だけです。これは語学の向上にとても効果がありました。

また当時は日本人の中国留学ブームが起きていた頃で、南開大学だけでも何百人もの日本人留学生がいました。そこで私は、日本人留学生と話をする時にも日本語を使わないようにしようと心に決めました。お互い日本語で話した方が便利なのに、あえて中国語でしか話さないのがクールだと思ったのです。最初は怒り出す人もいましたが、続けているうちに「あの人はそういう人なんだ」と評価が定まり、みなさん中国語で応じてくれるようになりました。

ともかく、せっかく中国語の海に浸っているのですから、そこで日本語を使うのはもったいないと思っていました。頭の中を常に「中国語モード」にしておくこと、それだけを念頭に置いて、中国語で話し、中国語で書き、日本から持参した本は背表紙を奥にして並べて日本語が目に入らないようにし、中国語会話のテープを「ウォークマン」でエンドレスのリバース再生(デジタルネイティブの方々にはもはや意味不明の表現でしょうね)にして、朝から晩まで暇さえあれば聞いていました。

そんな生活を一年ほど続けていたある日、「それ」は訪れました。あまり気乗りのしない中国語文法の授業を、ノートの端に落書きなどしながら聞いていたのですが、ふと気づくと、それまでの先生の中国語がすべて理解できていたのです。まるで日本語を聞いているかのように自然な感覚でした。初めて中国語で夢を見たのもこの頃です。会話はまだまだ拙さ全開ではありましたが、中国語の海で泳ぐことにほとんどストレスを感じなくなっていました。

たぶん、頭を「中国語モード」にして暮らし続けたおかげで、お風呂に少しずつたまった水がついにはあふれ出すように、ある種の「臨界」に達したのだと思います。この経験は自信となって、その後中国語を使って仕事をする際の大きな支えになってくれました。通訳者になるにあたって留学が必須というわけではありませんが、その語学にそれこそ寝食を忘れて没頭する時期は必要かもしれません。

昨今の若い方々はあまり留学に興味を示されないとも聞きますが、休学や休職をしてそういう時期を作ってみるのもよいと思います。期間はできれば一年以上がいいですね。異文化の社会の、年間を通した風俗習慣を肌で感じることは、背景知識が大きくものをいう通訳や翻訳の仕事にとても役立つからです。私のように「遅咲き」でも「周回遅れ」でも、何の問題もありませんので、ぜひぜひ。

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