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徳久圭先生のコラム 『中国語通訳の現場から』 武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。出版社等に勤務後、社内通訳者等を経て、フリーランスの通訳者・翻訳者に。現在、アイ・エス・エス・インスティテュート講師、文化外国語専門学校講師。

第5回:稲穂越熟頭越低──ペラペラなんて言えない

先日、出版されたばかりの『村上春樹翻訳(ほとんど)全仕事』(中央公論新社)を読んでいたら、翻訳者の柴田元幸氏が村上氏との対談の中でこう仰っている部分がありました。

「僕はやっぱりまだ、いまだに英語が外国語で、日本語に訳して初めて、わかったような気がするんですよね」

数々の名翻訳をものし、同じ翻訳者で東大教授の斎藤兆史氏をして「英語だって立派な文章を書きますよ。同僚のイギリス人の先生が『なんで柴田元幸は英語で授業をやらないんだ』というくらい立派なものだし、あれだけ翻訳がうまいというのは英語もできるからなんですよね(『英語のたくらみ、フランス語のたわむれ』東京大学出版会)」と言わしめる柴田氏にして、この「諦念」。私たちも、同じ語学にいそしむ者として襟を正さねばなりませんね。

またこれは二年ほど前ですが、毎日新聞に「村上春樹さん、村上文学を語る」という特集記事が載っていました(http://www.47news.jp/smp/47topics/e/264863.php)。この中で村上氏にインタビューした編集者がこう記しています。

「村上さんの場合は外国語を媒介にして、新しい日本語の文体を発見した」

なるほど、外語を学べば、その言語を使う人々と話ができる、あるいはその言語の本が読める・文章が書けるという「実利」があるのはもちろんだけれど、それだけではなく自らの母語の世界を広げることにもなるというのが実に興味深くおもしろいと思いました。

そうなんですよね。外語を学ぶ時によく「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」などといったかっこいい形容が聞かれますが、外語を学ぶのは必ずしも外国人と「かっこよく」コミュニケーションすることだけが目的ではありません。語学の達人と呼ばれる数多の先人の言に接してみれば分かることですが、外語を深く学べば、おのずと視線は母語に向かうようです。外語学習は実は母語との往還作業でもあり、母語がベースとなって初めて外語という新たで豊かなフロンティアも開けるものなのです。

ですから先回も申し上げたように、外語を学べば学ぶほど、母語の豊かさが外語の伸びしろを担保しているのだということが分かります。死ぬまで一生懸命に勉強しても母語で言えること以上に高度な外語の使い手にはなれないという事実の前にいつしか謙虚な気持ちになり、したがって「ペラペラ」とか「ネイティブ並み」とか「バイリンガル」などといった形容を軽々しく使えなくなる。とてもじゃないけどおこがましくて……。

私はこの十数年ほど、仕事でかなりの時間をディクテーション(音声を文字に書き起こす作業)に割いてきました。それは教材作りであったり、台本のない映像(バラエティ番組やインタビューなど)の字幕作成であったり、時には自分の興味や語学の基礎訓練のためであったりもしましたが、とにかく様々な年齢層、様々な職業の中国語母語話者の発言を一字一句書き起こす作業を続けてきました。

それらの発言のほとんどは、原稿を読み上げたものではなく、その場でその方が「フリーハンド」で語っているものばかりです。その何百人もの中国語母語話者の発言を書き起こしていて気づかされたのは、中国語母語話者であっても、その中国語のレベルは様々であるという当たり前の事実でした。日本語も同じですよね。日本語が母語の日本人であっても、ほれぼれするような言葉の使い手がいる一方で、「美しい」も「美味しい」も「感動した」も「失敗した」も「気持ちいい」も「気持ちわるい」もすべて「ヤバイ」で済ませちゃうような方もいる。

もちろん私は日本語母語話者ですから、基本的にはどんな中国語であっても自分にとっては貴重な教材になります。ところが、いくら中国語母語話者の発言であっても「しょーもない」発言は「しょーもない」し、含蓄のある発言はすぐさま人生の「座右の銘」に加えたいくらい含蓄があるのです。いや、本当に当たり前のことなんですけど。

村上春樹氏は「外国語を媒介にして、新しい日本語の文体を発見した」そうですが、もともとの日本語が貧弱であれば、いかに外国語を媒介にしようとも新たな日本語の文体は生まれ得なかったはずです。日本で生まれて日本に暮らしている日本人なら日本語ができて当たり前、でもそれでは今後グローバル化して行く世界に乗り遅れちゃうからまずは「英語ペラペラ」に……とつい浮き足立つ昨今ですが、まずは自分の母語を充実させる努力が大切だと改めて思ったのでした。

冒頭にご紹介した柴田元幸氏のみならず、語学の達人と言われる方々は表現の違いは様々ながらも、みなさん「外語は難しい、とても手に負えない」という吐露をなさっています。実際には外語を極め、その言語の母語話者からも「ネイティブ以上」だと賞賛されるような「語学遣い」の先人が、みな語学の難しさをこんこんと説いているのです。そんなのただの謙遜だよ、と思われますか。いやいや、私はここにこそ、母語と外語の関係、語学を学ぶことについての、深い哲理が隠れているように思えるのです。

世界がここまで豊かで多様性に満ちているのは、畢竟、人類の言語がそれぞれ異なっていたからだと思います。その壁をお互いに越えようとして人々は外語を学び、外語を母語と照応させる営みそのものが人類発展史における大きな原動力だったという壮大な物語を支持したいですね(いま私が作ったんですけど)。「神がバベルの塔を破壊し、人々の言語をバラバラにした」という神話の寓意は本当に深いと思います。バラバラになった差異の中にこそ、知は宿ると思うからです。

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