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徳久圭先生のコラム 『中国語通訳の現場から』 武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。出版社等に勤務後、社内通訳者等を経て、フリーランスの通訳者・翻訳者に。現在、アイ・エス・エス・インスティテュート講師、文化外国語専門学校講師。

第11回:可憐天下教師心──解らない人には解らない

能楽に造詣の深かった随筆家・白洲正子氏に、『梅若実聞書』という作品があります。観世流シテ方能楽師・梅若実氏の芸談(伝統芸能の演技者が、自身の技芸について語ったもの)で、『お能・老木の花』(講談社文芸文庫)に収められています。

この芸談には、芸事の稽古では師匠(梅若実氏の場合は父上)が単に「そこが悪い、ここがいけない」と言うだけで、ちっとも教えてはくれなかったという話が出てきます。しかし氏は、老境に至ってこう言うのです。

「いくら説明しても、解らない人には解りはしません。昔の教え方はいかにも意地が悪いようですが、始めのうちはともかくも、少し上達すると、実際教えようにも教えられない事ばかしです。自分にはよく解っているのですが、さて口に出していう段になりますと、どうも間違った意味にとられるおそれがありまして、ついだまって止してしまうという事になりますが、……能というものは、出来るだけしか出来ないんですからやはりふだんの稽古だけが大切なようでございます。辛抱強く数をかけることですね」

私はこのくだりを読んで、これは語学や通訳や翻訳にも通じる哲理ではないかと深く感じ入るものがありました。

ふだん私は、通訳学校や語学学校で通訳や翻訳の授業を担当しています。かつては自分もそういう学校に通っていたことがあり、なおかつその時の小さな不満は「訳出する時間が少なすぎる」というものでした。例えば通訳だと、ひとクラスに十数名の生徒がいたので、数時間の授業で自分に訳出が回ってくるチャンスは数回しかありませんでした。

そこはそれ、他の人が当たっているときでも自分の頭の中で、あるいはごくごく小さな声で訳出の練習をすればいいのですし、もとより週一回の授業だけで訓練の成果が出るはずもなく、訓練の大半は自宅での「自主トレ」であることは承知していました。とはいえ、やはり「本番」でドキドキしながら訳出をして、それに対する講師やクラスメートの意見、なかんずく、自分では気づかないでいたポイントを指摘してもらえるのは非常にありがたいことでありまして。というか、通訳学校に通うメリットはひとえに、そこにこそあると言っても過言ではないわけでして。

そこで、自分が講師の立場になったときには、できるだけ訳出の時間を増やそう、それに対するフィードバックもたくさん行おうと思ったのです。

ただし、数時間しかない授業で大勢の生徒さんに訳出をしてもらおうと思ったら、いきおいLL機材で一斉に録音し、それを後で聞いてひとりひとりにコメントを返すしかありません。それは授業以外にも自宅などで延々と録音を聴き、レビューを書くという大量の「時間外労働」の発生を意味するのですが、それでも生徒さんのためになるのならば、とそのスタイルを堅持してきたわけです。

ところが。

梅若実氏の顰みに倣って言うならば、「いくら説明しても、解らない人には解りはしません、意地悪なようだけど」なんですよね。訓練では、訳語がどうこう、誤訳がどうこうという訳出内容の適否以前に、例えば通訳なら一人称で話すとか、適度な声量でイキイキと話すとか、ホスピタリティを感じさせるとか、「です・ます」で話すとか、「あー」や「えー」といった冗語をなるべく差し挟まないとか、「○○のぉ⤴、○○がぁ⤴」のように助詞や語尾を上げ調子で不自然に強調しないとか、基本中の基本、鉄則があるわけです。翻訳なら「段落の最初は必ず一文字あける」とか「句読点や記号の正しい使い方に留意する」とか。

そうした指摘をうけて、どんどん自分を改善していく方もいます。でも一方で、何度指摘しても同じようなパフォーマンスを繰り返す方がいる。結果、レビューには毎回同じような指摘が並ぶことになります(実際には「芸がないかな」と思って表現をあれこれ変えますが)。……これは学校の営業的にはタブーの物言いですけど、そういう方はこの仕事に「向いていない」のです。もちろん向いていなくても学ぶ自由はあります。私だって後から考えれば自分には全く向いていなかった分野を、大学で専攻していましたしね(それでもなにがしかの人生の糧になっています)。

以前ならそういう生徒さんに強い口調で「指導」したりもしましたが、今はもうやらないようにしています。梅若実氏の仰るように、言ったからといって、解ってもらえるわけでもないんですよね。それよりも「辛抱強く数をかけ」、生徒さん自身の中から何かが醸成されてくるのを待つべきなのでしょう。いや、むしろ教師の役割はそれを信じて(よい意味での)プレッシャーをかけ続け、励まし続けることだけなのかもしれません。もとより語学は「辛抱強く数をかけ」ることでしか習得・上達できないものですし。

ところで、仕事に向かう電車の中で梅若実氏のこのくだりを読んでいたく共感したので、付箋を貼ろうと思うも手元に持ち合わせがありませんでした。仕方がないのでページの端を折ろうとしたら、なんと、先に誰かが折った跡がついていました。この本はAmazonのマーケットプレイスで買った古書なのですが、前に読んだ方も、ここで同じようにご自分の仕事に通じる何かを感じられたのかもしれません。

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