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徳久圭先生のコラム 『中国語通訳の現場から』 武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。出版社等に勤務後、社内通訳者等を経て、フリーランスの通訳者・翻訳者に。現在、アイ・エス・エス・インスティテュート講師、文化外国語専門学校講師。

第12回:能否夢見電子羊──機械通訳は実現するのか

「言語の壁は崩壊寸前」という、興味深い記事を読みました。

https://twitter.com/WSJJapan/status/815422358387310592

この記事によると、機械通訳の技術は日進月歩で、あと十年もすれば人々は数十の言語間で自由に会話できるようになり、「言葉の壁」という概念そのものがなくなるだろう、とのこと。商売柄こういう話題に接するや、とかく「食えなくなるかも」といったナマな思考回路が働きます。AIやロボット技術、音声処理技術などの話題がたびたび報じられるご時世もあって、通訳学校の公開講座などで「機械通訳が実現したら、通訳者はいらなくなるのではないですか」というご質問をいただくこともあります。

かつて自分のブログに「自動通訳機械の実現は、量子コンピュータでも実現しないと難しいんじゃないか」とやや皮肉まじりに書いたことがあるのですが、この記事を読んで、以前は「まだまだ」と思っていた自動通訳機械(自動翻訳+音声による出入力)が、意外にはやく実現するのかも知れないと思いました。特に観光ガイドや、見学・買い物等のアテンドなど「難易度」の低い分野ではすでに様々なサービスが登場していますし、その精度も日々向上しているようです。

一方で音声処理技術の進化にも目を見張るものがあります。私のような門外漢でさえ、その利便性に「こんなこともできるのか!」と驚きの連続です。登場した当初はそのとんちんかんな答えや無反応が笑いを誘ったSiriやGoogleの音声認識だって、かなり便利になってきました。今では私も往来で検索するときなど、スマートフォンの音声機能を使っています。GoogleやAmazonなどのAIスピーカーも発売が始まりました。

SNSでは、上記の記事に対して「通訳者や翻訳者は失業する」という意見も散見されました。でも私は、複雑な交渉や文化芸術等に関する領域、テクニカルな内容満載の会議通訳では、今後もまだ当分の間は生身の人間が必要とされると思います。型どおりの儀式や会議ならともかく、最先端の知見がぶつかり合う現場でのやりとりは、用いられる言葉の範囲があまりにも広く、予測不可能で、展開が複雑に絡み合っているからです。

ですが……それも、この記事が言うように「データ量の増加とコンピュータの能力向上、ソフトウエアの改善」という時間が解決する問題なのかも知れません。今はまだ不完全な機械翻訳でも、たとえばDuolingoのように膨大な数の人間が翻訳結果の改善に力を注ぎ、音声による出入力も各国で官民を挙げた技術向上が図られていくのであれば。

実務に耐えうる自動通訳機械なりシステムなりが実現するのが数年先か数十年先か、それとも百年単位の遠い未来なのかは分かりませんが、もし本当に実現したら人々のコミュニケーション方式は大きく変わるでしょうね。

現段階の自動通訳機械は、パソコンやiPhone・Androidなどのスマートフォン、あるいは通訳専用のデバイス(「イリー」のような)を介した、訳出にも多少のタイムラグが生じるプリミティブなものですけど、今後ウェアラブル端末がより進化して、コミュニケーションにおけるストレスを感じない装着感とスピードで自動通訳が行われるようになるかも知れません。腕時計と同じようなごく普通の身体感覚として馴染んでいくのでしょう。たとえばこのLINEが開発しているMARSなどのように。

MARS
https://youtu.be/r_tSQ9eH-ks

現在の我々は、自分の発話を理解してくれていると思える相手に向けてでないと、話すときにストレスを覚えるようです。電話でも相手が自分の言語を理解してくれないときはどうしようもない「隔靴掻痒感」に襲われますし、逐次通訳をしているときなど相手側はこちら側の主役ではなく通訳者の我々に向かってコンタクトしてくる傾向があります。

でもこれも、生まれたときから「自動通訳環境」がある人々ならごく自然に「装置」を介したコミュニケーションに慣れ、それに応じた身体作法を身につけていくのかも知れません。生まれたときからインターネットがあって、ラインなどでの会話が「デフォルト」である若者たちのように。異なる言語間の背後にある「自動通訳システム」が、その存在をほとんど感じさせない空気のようなものになって、人類にとって言語の差とか他言語などという概念が徐々に薄まっていくのかも知れません。そして母語や外語という概念も軽くなり、ひいては通訳者や翻訳者という職業も「かつてはそういうお仕事があったんだってね」と語られるような時代が来るのかも知れません。

ですが、ここで大きな疑問があります。異なる言語間のコミュニケーションがすべて自動通訳に置き換わった未来において、人類の知見はそれ以上進歩するのでしょうか。自動通訳システムは異なる言語間の膨大な翻訳結果を集積したビッグデータをその基盤としていますが、人々が十全に自動通訳システムを享受するようになったあかつきにはその翻訳作業、つまり母語と外語との往還なり比較なり分析なりをする人自体が減っていくという自家撞着に陥ることはないのでしょうか。

人それぞれが、それぞれの母語だけで暮らしていくことができ、母語以外の、たとえば英語のような「世界共通語」の習得に人生のかなりの時間を割かなくてもよくなる未来は今よりずっと素晴らしい世界のようにも思えます。でも一方で、語学をやった者の実感として、母語と外語の往還にこそ我々の思考を深めるカギが潜んでいるとも思えるのです。人類は絶えず異言語・異文化に目を向け、興味を持ち、それを知りたいと思う欲求こそが学びを起動させ、そこから得られた洞察が人類の「知的コンテンツ」となって蓄積されてきました。異なる者との接触の中で思考も鍛えられてきたのだと思います。

そうした学びが自動通訳システムで失われた、あるいは大幅に減少した未来社会で、各言語の使い手が単に自分の母語の内側だけでコミュニケーションを行い(だって他言語とのコミュニケーションはストレスのない状態で提供されているのですから、母語のみで聞き話すこととほとんど同じです)、異言語や異文化に対する興味も、警戒も、共感も、反感も、怖れも、憧れも単に母語の内輪での振幅に押し込められてしまった世界で、知は深められていくのでしょうか。

前出の記事は「理論的には、機械翻訳のおかげでわれわれ誰もがバベルの塔を意のままにできるようになるだろう」という言葉で締めくくられています。連載の第五回でも書きましたが、私は逆に「神がバベルの塔を破壊し、人々の言語をバラバラにした」という神話の意味は本当に深いと思いました。バラバラになった差異の間にこそ、言い換えれば多様性の中にこそ、知は宿ると思うからです。

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