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相田倫千先生のコラム 『英語をキャリアとして一生続けていく』 大学卒業後、米ニューヨーク州立大学、オレゴン州立大学でジャーナリズムを学び、帰国後、ISSインスティテュートに入学。現在はフリーランスの通訳者・翻訳者として、主に半導体、産業分野のエキスパートとして活躍中。

第6回:子育てと仕事の両立・前篇

皆さまこんにちは。
GWも終わり、全てが通常に戻ってきましたね。
そろそろ梅雨かしらと思いながら、毎日気温が上がるので、今年も猛暑になるのかと戦々恐々としております。

ワタクシ、イスラエルの出張から無事戻ってまいりました。現地は気温が高いという情報だけが先走りして入って来たので、しばらく薄着で行動していたら、朝晩の寒さに耐えられず、一緒に出張へ行ったグループの一人が風邪をひき、そこからだんだんとうつり、次々と風邪で体調を崩す人が続出。結局、ほぼ全員の日本人が風邪をひきました。もちろん私も例外ではなく、2週間半のうち、ほとんどが風邪で苦しみ、日本から持参した風邪薬も足りなくなり、現地の薬局で買うはめに・・・・。現地の薬は良く効くのですが、きっと成分が強いのでしょう。胃をやられ、食欲がなくなりました。本当にこんな体調が悪い中で仕事をすることがめったにないので困りました。でもなんとか任務をこなし、帰国しました。次の日から休む間もなく会議通訳でしたが・・・。

今月と来月は、「子育てと仕事の両立」について書いてみたいと思います。

女性いや男性も含めて、家族の都合が優先されることもあります。家族とは、自分の子供だけではなく、時には両親であったり、兄弟姉妹であったりすることもあります。家族には色々な形がありますから。

これは私の今の家族で起きた、極めて個人的なケースです。子育てには正解というものはありません。またこうやったらちゃんと育つという図式もないのです。その子固有の性格に、一期一会の気持ちで付き合うこと、ベストを尽くすこと、これしかないと結論として思うのです。母親達の間では、「仕事を続ける」「仕事をやめて子育てに専念する」という選択肢があって、まずどちらにするかを決めなくてはなりません。そして、その自分の決断と産まれた子供の意志とがうまく一致するかどうか、これも大切な要素です。私は「仕事を続け、通訳としてキャリアを積み続ける」選択をしたつもりでした。

私は結婚して2年後に第一子を授かりました。丁度、通訳学校を卒業し、独り立ちした頃、妊娠がわかりました。気にせず仕事をこなしていましたが、流産の危険性があることがわかり、そのままずっと数カ月入院生活をしました。この時点で、計画と違ってしまったのです。お仕事はすべてキャンセルしました。そして安定した頃退院し、自宅に戻りましたが、ずっと体調が悪く出産まで治らなかったのです。その後、半ば「長期休業」ということになりました。

第一子が産まれてすぐに第二子が授かり、立て続けに男の子が年子で産まれました。この時点で、子供が小さいうちは家庭にいて育てることを選択しました。

二人とも毎日夜泣きをし、一時間ごとにどちらかの子供が起きるのでミルクを飲ませるという生活が数年続き、常に寝不足、そして疲労していました。二人の子供がいると、常にどちらかが熱を出しているかまたはトラブルが発生していました。特に二人とも喘息を持っていたので、それはそれは注意を払っていました。よくこじらせて肺炎になり入院をしました。

そんな生活が1~2年続いたある日の夕方、台所でお皿を洗っていたら、涙がぽろぽろとこぼれて止まらなくなりました。自分の選択に後悔はないはずなのですが、「私は何をやっているのだろう?何のためにアメリカへ留学し、通訳学校へ通ったのだろう?あの頃のパッションは一体どこへ行ったのかしら?」と、社会から隔離されている感覚、現場から離れている焦りから、涙がとどめなく流れるのです。そのころ住んでいたのは群馬県で、都内へ出るには2時間以上かかります。保育園の時間も限られているし、預けるのも大変です。そのころは延長保育などありませんでした。そしてなんといっても、私にとって子供はかわいいし、二人とも重度の喘息をもっている。そんな複雑な感情が、どっと溢れて来たのでしょう。夫が帰宅しても泣いていたので、仕事をすることを勧められました。近くでいいから仕事を再開してはどうかと・・・

そのころの生活は、子供達が夜泣きをするとあやして寝かせます。でも親はそんなにすぐには寝られないので、私は昼間撮っておいた衛星放送の英語を聞いて、通訳の練習をしました。今から考えるとそこまでしなくてもよかったのではと思いますが、その当時はそれが自分のプライドとアイデンティティを保つ「意地」だったのかも知れません。いつか通訳として復帰したい、その思いだけがそのころの私を支えていたのかも知れません。けれども、夜中3時頃、ぎらぎらとした目で衛星放送の通訳練習をしている母の姿・・・怖いと思いませんか?

その後、英語専門学校の講師、群馬県でのエリア限定の英語通訳、アイ・エス・エス東京校での集中講座など、与えられた状況で出来る仕事は請けました。

ところが子供って「この日は大きな仕事が入っているから絶対病気にならないで」という時に限って熱を出すのです。まるでこちらのスケジュールがわかっているかのように・・・エベレストを初登頂したヒラリー卿の講演会通訳の2日前、長男が熱を出し、夜通し看病し疲れ切った上、私まで熱を出したのです。仕方ありません、座薬を入れて仕事に臨みました。あの時、広いホールでの講演会では空調が効いていたのですが、その空気が当たるだけで“ぞ~~~”っとするほど寒気がしたことを今でも覚えています。

そうこう仕事を続けるうち、忙しくなり、子供達の保育園へ行く回数が増えます。そんなある週末、保育園の近くのスーパーに買い物へ行く車の中で長男が急に動かなくなり、涙をいっぱいためて黙りこんだのです。私も主人も「どうしたの?」と聞いても何も言いません。本当に様子がおかしいので、泣きじゃくる子を抱っこして話しを聞くと「お母さんが好きなのに、保育園行くとお母さんに会えないから、●君いやだ」と言い、わぁ~っと泣きだしたのです。そうすると、我慢をしていた弟も、わぁ~~っと泣きだしました。私も悲しくなって、一緒に泣きました。「やはり、この子達にはまだ無理なのかもしれない。子供の性格によって、親が昼間いなくてもやって行ける子もいれば、性格形成上、問題がある子もいるのかも知れない」と思い、その時点で請けていた仕事を終えると、再び家庭へ戻りました。

この先も、何度か仕事をしようと出ると、何か問題が起こり、仕事を控えることとなりました。来月も続きを書きたいと思いますが、お付き合いください。

たくさんの困難があっても通訳を続けるための勉強をし続けて復帰した、きっと私は、普通の人より執念と根性があるのではないかと思っています。だからこそ、50才近くになってイスラエルへ20日間もの出張へ行けるのです。仕事があって通訳が出来るっていうこと自体、私にとって感謝するべき状態なのです。多少条件が悪い仕事のような場合でも、私は過去、仕事が出来なかった時期が長かったので、ありがたいと思います。

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