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石黒弓美子先生のコラム 会議通訳・NHK放送通訳者
USC(南カリフォルニア大学)米語音声学特別講座終了。UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)言語学科卒業。ISS同時通訳コース卒業。國學院大學修士号取得(宗教学)。NHK-Gmedia国際研修室講師・コーディネーター。東京外国語大学等で非常勤講師。発音矯正にも力を入れつつ通訳者の養成に携わる。共著:『放送通訳の世界』(アルク)、『改訂新版通訳教本 英語通訳への道』(大修館書店)、『英語リスニング・クリニック』『最強の英語リスニング・ドリル』『英語スピーキング・クリニック』(以上 研究社)など。

第17回:遺伝子と文化 Genes and Culture

4月の末、ロールシャッハ・テストなどいくつかの心理テスト psychological testsの結果を基に、心のケアを必要とする人々の心的状態を評価しTA/Therapeutic Assessment、治療的介入Therapeutic Intervention(新しい形のカウンセリング)を行う方法を、実践的に学ぶセミナーが東京で行われました。講師はテキサス州から来られたTAの創設者で権威であるDr. Steve Finn。参加者は、病院や裁判所に勤務する日本人の心理カウンセラーです。

この3日間のセミナーでは、日本で精神科医の治療を受けている、あるバイリンガルの患者さんの同意を得て、Finn先生による治療的介入が実際に行われ、その様子を別室のテレビ映像に映し出し、セミナーの受講者が同時進行で見学するという、日本で初めてのライブ治療的介入セッションも行われました。筆者はこのセミナーで通訳をする機会をいただきました。

患者さんは、アメリカ人の母と日本人の父の間に生まれ、二つの文化と言語のはざまで子どものころからストレスを経験してきた人でした。また、幼いころから、日本という異文化圏で苦労する母親の姿を目の当たりにし、母のために心を痛め、「母を守らなければ」という強い思いに駆られてきた人です。一方で、アメリカの大学院を卒業した頑張り屋で(achiever)、いつも100点を取らないと気が済まない完ぺき主義(perfectionist)。その完ぺき主義ゆえにということもあって、社会に出てからも、この人に仕事を任せておけば安心だと周囲からは信頼されていましたが、それだけに上司にはどんなに大変な仕事を任されても、「ノー」と言えないタイプ。つい頑張りすぎてしまう傾向がありました。

ところが「よくできる頑張り屋」の外側のイメージとは裏腹に、実は、強迫性障害 OCD・Obsessive-Compulsive Disorderに悩んでいたのです。出かける時はカギをかけたかどうか、ガスを消したかどうかなど気になって、何度も何度も確認しないではいられません。家を出た後も、家に戻りたくなる衝動にかられます。仕事場でも、何度もきちんと仕事をしたかどうかをチェックしなければ気になって仕方がありません。車で人を轢いてしまったのではないか、怪我をさせてしまったのではないかなどという強迫観念にも悩まされ、日常生活に支障をきたすほどで、精神科を受診しているということでした。

今回、アメリカ人の専門家に英語でセラピーを受け、その場面を別室にいるセミナー参加者にライブで見せることに同意したのは、彼女は間もなく母親になるところで、生まれてくる子どもが自分と同じようにOCDになるのではないか、どうしたらそれを防げるか、緩和する方法はないかと、真剣に考えていたからでした。参加者は全員、患者の秘密を守る守秘義務宣誓書にサインをさせられてのライブ・セッションの実施でした。

セッションの様子は、同時通訳で参加者に伝えられました。患者には別室にいるセミナー参加者や通訳者の姿は見えません。私たちは、患者のいる部屋にこちらの音が漏れないよう息をひそめてFinn先生と患者のやりとりを見つめていました。セッションが終わり、患者が帰っていくと、別室では、セッションの進め方についての質疑応答や、内容の分析が行われました。

OCDなどの精神障害の要因としては、生物学的・遺伝的要因 biological/genetic factorsや文化・社会的要因 cultural/social factors、あるいはトラウマや、過去の経験から生まれた強い恥の観念 shameなどがあるといいます。そうした要因が、自分で自分を変えることができない大きな規制力として働いているというのです。治療では、そうした要因を特定し、患者がその呪縛から自らを解き放つことができるように手助けすることが大切なようでした。

この患者さんの場合、遺伝的要因や過去の経験がOCDの原因になっているようだということが認められましたが、興味深かったのは、文化的要因の議論でした。Finn先生の質問に答えて、日本の文化的・社会的要因の議論をしていくうちに、日本人は多かれ少なかれ、大半の人がOCDのスペクトラム(軽度から重度までの尺度)のどこかに載っているのではないかという指摘がなされたことでした。

OCD傾向のある人は、「物をため込む人 hoarder」(その時の私のパートナーは「ゴミ屋敷症候群」と訳せるかもしれないと言っていましたが、その傾向のある人)、完ぺき主義者、頑張り屋、人に頼まれると「ノー」と言えないなどという人が多いそうです。hoarderはともかくとして、このような傾向は、確かに多くの日本人にあるだろうと思いました。筆者自身にも、ここに挙げたどの傾向も少なからずあるような気がします。

考えてみれば、筆者がアメリカに留学した時の最初のカルチャー・ショックは、金曜日になるとみんなが交わす挨拶の言葉でした。“Take it easy! Have a nice weekend!” そして、月曜日の朝の挨拶、“How was your weekend? Did you have fun?” これに対し、「ゆったりと落ち着いた良い週末でした」というつもりで、“I had a quiet weekend.”などと言おうものなら、“Oh, poor Yumiko!”「あらまー、可哀そうな弓美子」(デートに誘ってくれる人はいなかったのねえ)という憐みの眼差しを向けられることでした。

期末試験直前の週末ですら、“Don’t work too hard!”(「あんまり頑張らないでね!」とみんなが言い合って別れる姿には、「この国の人たちはどうなっているのかしら」と、驚いたものです。何しろ、子どものころから、「頑張ってね!」が挨拶代わりの日本人でしたから。もちろん、アメリカ人が頑張らないなどと言うつもりはありませんし、日本人以外にもOCD傾向の強い人々はいると思います。しかし、筆者のわずかな経験からも、やはり日本人には、どちらかというと強い「頑張り屋」の遺伝子が受け継がれ、社会や文化の一部になっているのではないかと思えてなりません。ですから、“Take it easy”型の人 (のんびり屋)には、ちょっと生きづらい世の中かもしれません。

「頑張るのが日本の文化」と聞いたFinn先生の最後のセッションでは、患者さん自身が徐々に、こうした日本的自分の傾向に気づいて行きました。「気づき」が「回復への第一歩」です。そして、Finn先生の彼女への最後の指導は、“So, you must work very hard now to relax, take it easy and not to worry too much. You have been doing so well, possibly because you had OCD. There is an advantage to have the OCD tendency, you know?” (ですから、あなたは、これからは、リラックスして、ゆったりする、頑張りすぎないよう、頑張らなくてはなりませんね。あなたは、OCDだったからこそ今まで成功してきたと言えるかもしれませんよ。OCDの傾向があることにも利点はありますよ。)

これには、患者さんもにっこり。安堵した様子で、“Yes, I have to try hard to relax, not to worry too much.”と自分に言い聞かせながら、Finn先生に別れを告げていきました。日本人の参加者の多くは、この半分ジョークのような指導と、英語でやりとりしていたせいなのか、患者本人のウィットに富んだ受け答えの面白さに気づいていないようでしたが、海外からの参加者からは、その指導がすごく良かった、愉快だったとの声が上がりました。そう言えば、英語で話している時の方が、日本語を使っている時よりも、自己表現しやすいとか、ジョークも出やすいと感じたことはありませんか。

文化は長い年月をかけて人間が創ってきたもの、創っていくものですが、その文化の中で生きていると、逆に文化的要因が遺伝子に組み込まれ、無意識化されていくのでしょう。私たちは、案外知らない間に自分で自分の心を縛ってしまっているのかもしれません。時々、このような自分の文化の特徴を改めて認識し、無意識の自制心の働きに気づくだけでも、ずいぶんと心を解放することができそうです。こんな経験と学習も、通訳業の妙味と言えそうです。

第18回:大切にしたいことばの力・言語コミュニケーション– Power of words

第17回:遺伝子と文化 Genes and Culture

第16回:聞く人の身になって-「日本人はあらゆるものに神を見る」 We see gods in everything..... with a small letter “g” –

第15回:「読める漢字」 vs 「書ける漢字」 How many Kanji characters can you read? And how many can you write?

第14回:つきない勉強 The more you learn, the more you realized you have more to learn.

第13回:七転び八起き ~Difficult child 難しい子!? 多様性の一つ?~

第12回:「女性が輝く社会 A Society where women shine??」――課題は多いけれど

第11回:「どんなお気持ちでしたか?」 ~How did you feel? What did you think? しか出てこないもどかしさ。

第10回:もう一つの通訳 -本物の「包摂性」とは何か? How much do we really know about inclusiveness?

第9回:英日通訳「言葉に引っかからずに意味を取る」とは

第8回:DLS Dynamic Listening and Speaking 日英通訳力強化のために

第7回:Quick Response Exerciseとlexical approachの勧め ~自動的で速やかな英語のアウトプットのために、単語ではなく句や文でアウトプット~

第6回:順送りの情報処理 Slash reading

第5回:Listening comprehension 本当のところ、どこまで聞取れていますか

第4回:“Inaudible”??? 「聞取り不可能」

第3回:「I started to walk in electronics in 2006???」 母音再確認の勧め

第2回:Who is “’TAni-sensei”? 英語の聞き取りと発音

第1回:背中を押し続けてくれた「継続は力なり!」

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