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プロ通訳者・翻訳者コラム
気になる外資系企業の動向、通訳・翻訳業界の最新情報、これからの派遣のお仕事など、各業界のトレンドや旬の話題をお伝えします。
成田あゆみ先生のコラム 『実務翻訳のあれこれ』 1970年東京生まれ。英日翻訳者、英語講師。5~9歳までブルガリア在住。一橋大大学院中退後、アイ・エス・エス通訳研修センター(現アイ・エス・エス・インスティテュート)翻訳コース本科、社内翻訳者を経て、現在はフリーランス翻訳者。英日実務翻訳、特に研修マニュアル、PR関係、契約書、論文、プレスリリース等を主な分野とする。また、アイ・エス・エス・インスティテュートおよび大学受験予備校で講師を務める。
第6回:翻訳と文法
翻訳者を志す人が最も知りたいことの一つに
「いったいどのくらいの英語力があれば実務翻訳者になれるのか?」
ということがあるでしょう。
あえて先に答えを申しますと、
「原書で小説を楽しめるくらいの語学力があれば実務翻訳はできます。
ただ、日本語の運用力のほうがある意味重要かもしれません」
となるかと思います。
でもここで終わってしまっては質問した人を煙に巻いただけなので、今回はこの答えのうち、英語力に関する部分について詳しく書いてみたいと思います。
☆ ☆ ☆
「小説を楽しむくらいの語学力があれば実務翻訳はできる」
というのは、通訳界の巨星、ロシア語同時通訳にしてエッセイストの故・米原万里様の言葉をベースにしています。(『米原万里の「愛の法則」』集英社新書、p164)。
ご本人の発言は「文学小説が楽しめるくらいの語学力があれば通訳はできます」というものなのですが、「通訳」の部分を「翻訳」に置きかえても問題ないと思います。
(なお、米原万里様の本はどれも本当に面白く、超おすすめです)
小説を楽しみながら読める程度の単語・文法的知識があること。
「この人は本当は何がいいたいのか」という言外の含みを読み取る力があること。
これらをクリアすれば、実務翻訳に必要な外国語能力はあると言えるでしょう。
これは、一般的によく知られている英語の資格に換算したら、どの程度になるでしょうか。
個人的実感では、翻訳者として継続的に仕事が来るレベルというのは、英検1級やTOEIC990点よりも上、それもかなり上だろうと思います。
先日、スクールのセミナーの席上、
「英検1級と翻訳者として稼働可能なレベルの差は、英検4級から英検1級までのレベル差の10倍くらいあると思う」
と言ったところ、会場内に一瞬、暗い空気が流れてしまいました……。
でも後々考えるに、この実感はあながち間違っていないと思っています。
翻訳というのはひとつの技術、職人技に属するものです。
職人技というのは、その道に入る時点と一本立ちが可能になる時点では、実力に相当の差があるものです。
例えば、菓子職人になりたいと思った人がパティシエに弟子入りしたときの腕前と、独立して店をオープンする時の腕前には相当の差があることは、容易に想像できると思います。
あるいは、医師国家試験に合格した医学生の能力と、医師として一人で診療を始められる能力にも相当の差があるはずです。
これらと同じ差が、翻訳の道に入る時点と、翻訳者として一本立ちできる時点にも存在します。
そして、前者のレベルが英検1級程度でないかと思います。
☆ ☆ ☆
10倍という言葉にがっくりきた方へ…
考えようによっては、それほどの差があるからこそ、翻訳が職業として成り立つとも言えます。
また、職人技には「ここまでできるようになればもういい」というものではなく、うまくなればなるほどさらに課題が見えてきます。だからこそ面白いのであって、勉強に終わりがないことが翻訳の面白さのひとつとも言えます。
もう少し現実的な話をしますと、レベルの差は10倍あっても、そこに到達するまでの勉強時間は10倍もかかりません。
場合によっては数分の一で到達することも可能です。
というのも、勉強量と成果の関係は単なる正比例ではなく「べき乗」、すなわち「倍々ゲーム」で増えていくからです(池谷裕二『記憶力を強くする』p217。この本もめっぽう面白いです)。
同書によると、勉学の効果というのは努力の量に応じて、1、2、4、8、16…と、べき乗で増えていきます。
仮に英検1級の英語力を100、翻訳者に必要な英語力を1000とします。
100に到達するまでには、1、2、4、8、16…と努力を続ける必要があります。
(1から2、2から4にステップアップするのに要する学習量は一定とします。例えば1000時間)
大半の人は8や16あたりで、かけた時間に対してあまりに成果が出ないので、いやになって挫折します。
ところが、ここでさらに努力を続けると、32、64、と急速に力がついてきます。
そしてもうひとふんばりで128に到達し、100を超えます。
その後は、256、512、1024というペースで実力が向上しますので、1から100を超えるよりもはるかに少ない学習時間で、100から1000まで到達することができるのです。
☆ ☆ ☆
ところで、一口に「英語を勉強する」と言っても、外国語には読み・書き・話し・聞くといったさまざまな側面があります。訳す場合はどういった方面を伸ばすことになるのでしょうか。
多くの人の予想通り、「訳す」という行為は読み・書き・聞く・話すのそれぞれ単独を伸ばすのとは異なり、英語と日本語の間のリンクが非常に密であることが求められます。
翻訳するためには、英語と日本語との間の行き来が、非常に柔軟、緻密、かつ敏捷であることが求められます。
いわば、自分の中の英語大陸と日本語大陸の間に、太い橋がかかっている感じです。
この橋が片側6車線みたいな勢いで開通していると、英語の個々の言葉の辞書的な意味や品詞、構文といったしばりを飛び越えて、書き手が言わんとすることを日本語に置き換えることができるようになります。
この橋は訓練によってかけることが可能です。
ただし、商品レベルの翻訳ができるような太い橋をかけるには、数年にわたる集中的な訓練が必要です。
さらに、この橋がしっかりとかかるための前提条件があります。
それは、土台となる英語大陸と日本語大陸が強固に存在していることです。
☆ ☆ ☆
翻訳において英語大陸がしっかりと存在しているというのは、ネイティブのような切り返しができたり、発音がよかったりといったことではありません。
翻訳において必要な英語力とは、
「原文のすべての語の役割を、論理的に言葉で説明できる」
ということです。
ここでいう「役割」には、ある語が全体の中で持つ意味や、文脈の中での意味ももちろん含まれますが、ここであえて強調したいのは文法的役割です。
翻訳者は、英文法の知識があることが大前提です。
どんな海外経験があってもこの点には例外はないと、経験上断言できます。
文法の重要性は、いくら強調してもしすぎることはありません。
翻訳するためには、楽しみのために読む場合とは異なり、一語も飛ばさず正確に読むことが必要です。
私の修業時代の先生は、「英文には余分な語は一語たりともない」と言い、「この訳だとtheの意味が入っていない」「これだとstrengthsと複数形になっている意味が出ない」という具合に、冠詞や前置詞や活用形に至るまで、あらゆる細部を突き詰めることを要求してきました。
こういう要求に応えるには、英語を直観的に理解しているのでは不十分で、英文法にのっとったロジカルな理解が不可欠です。木も森も見ると言うか、俯瞰すると同時に、ごくごく細かい部分まで英文を理解できないと、商品レベルの翻訳にならないのです。
我が身を振り返っても、また生徒さんを見ても、直観的な理解から脱すること、そして内容を言葉で(できれば基本的な文法用語を使って)説明できるレベルに至ることが、ステップアップの鍵であるように思います。
海外経験が長い人についても、このことは当てはまります。
ISSのスクールには、小学校、中高、大学、就職、結婚…と人生のさまざまな段階で海外生活を送られた方が来られますが、いつ海外に出たかに関係なく、英文法を徹底的に叩き込んだ(または叩き直した)ことのある人は、かなりの割合でうまくなります。
また、海外歴がなくても受験英語、特に英文和訳をきちんと勉強した人は、最初から翻訳の勘所を押さえているケースが少なくありません。
あえて極論すると、翻訳に必要な英語力をつけるためには、下手な海外経験よりも正しい受験英語のほうが効果的だと言えます。
☆ ☆ ☆
私自身は小学校帰国で、大人になってから英文法を叩き直したタイプです。
ここでお目汚しですが、英語歴的自己紹介を披露してみたいと思います。
私は幼稚園の年長に上がる直前の春、父の転勤で当時は共産主義国だったブルガリアに渡り、現地のアメリカンスクールに入りました。
そこで3年半、全校生徒70人ちょっとの、自由圏(資本主義国)のさまざまな国の子供たちが集まる小さな学校において、英語で学びました。
9歳で帰国した当時は9歳の英語ネイティブの会話力はありましたが、こと書き言葉に関しては「whoとwhomの違いって何だろう?」というのが帰国直前の頃に思っていたことでした。
帰国後、小学校のうちに英検2級に合格し、日本の中学に入りました。
当然のことながら学校では「英語のできる人」扱い、自分自身でもすっかり天狗になっていて、英語の授業は一切聞かず「プログレス(英語の教科書)のすべての挿し絵に落書きをすること」を目標に過ごしていたほどです。
しかし大学受験が近づくにつれ、どうもいまいち英語がよく読めない…という意識が少しずつ生まれてきました。それもそのはず、私は17歳になっていましたが、英語力は9歳レベルで止まっていたのです。
「あんたが鬼ね」とか「絶対誰にも言わないって約束する?」みたいなことは言えますが、大人の英語力はありません。
でもそのことを誰にも指摘されないまま時は流れ、大学入試は帰国英語の最後の勢いで乗り越えてしまいました。
本格的に自分の英語力不足に悩み始めたのは、大学に入ってからです。
それはまず、第二外国語のフランス語をまったく理解できないという形で表れました。
周りに言わせると「quiとqueの違いは、whoとwhomの違いと同じだよ」だそうですが、whoとwhomの違いが直観的にしかわかっていない私にとってはちんぷんかんぷんでした。
文法用語を本当にひとつも知らないので、「quiは主格、queは目的格だよ」と言われるとますます混乱してきます。何しろ主語や目的語と言われても何のことか分からない状態なのです。
加えて周囲の人々は、専門書を「辞書さえあれば読める」と言っているのですが、私には抽象的な英語を読む力が欠けており、受験英語を積み上げてきた周囲の人々よりもどんどん遅れをとっていきました。
大学入学後すぐに英検1級に合格していたのですが、そんなことを言い出せないほど、周囲との英語力の差は開く一方でした。
英文法を知らないまま大学院に進んだ私は、「ものを知らない人」キャラが定着していました。
相変わらず子供英語のままで、いろいろなものを読み散らしてはいましたが、頭に残っていないところからすると、あまり理解していなかったのだと思います。
そんな25歳のある日、突然、副詞節の意味がわかったのです。
「副詞(名詞以外の語を修飾する)が節(SVにかかるSV)になっているから、副詞節なんだ!!!」
それは本当に、ヘレン・ケラーの「ウォーター!!」もかくやと思うほどの衝撃でした。
その日から2週間、『英文法解説』(江川泰一郎。これも名著です)を読み続け、私は英文法を完全に理解しました。
できすぎた話のようですが、私の英語力はそのときから一変し、これを境に英語大陸と日本語大陸の間に猛然と橋がかかり始めたのです。本当にあっという間の出来事でした。
「副詞節事件」を聞いた周囲はあきれていましたが、とにかくその一件を通じて、断片的でぐらぐらした英語力が、一気に体系化しました。
その後、予備校講師業を通じて文法的な観点から英語を説明する訓練を積んだことで、翻訳業で出会う文章は契約書などの難構文も含め、全ての語の役割が分かるようになりました。
この副詞節事件からISSのスクールを経て派遣卒業までの5年ほどが、100から1000に伸びた時期だったと、今になって思います。
前述の修業時代の先生からは「仕事を始めて最初の数年は、面白いくらい実力が伸びるわよ」と聞いていましたが、果たしてその通りになりました。
☆ ☆ ☆
とにもかくにも、翻訳者には英文法です。
最後に、これだけ熱く英文法の重要性を力説した手前、文法書を紹介しないわけにはいかない…というわけで、文法書を紹介いたします。
文法書はいろいろな取り組み方が可能です。
私のように、予備校の仕事道具として使うかたわら、ある時一気に読むという使い方もあります。
また、翻訳者仲間や受講生のなかには、文法書を通読した人や、写経、すなわち全部書き写したことのある人がちょくちょくいます。
・『英文法解説』(江川泰一郎、金子書房)
日本人が日本語で書いた、網羅系文法書の定番。
普通は、わからない箇所を巻末索引から引くという方法で使いますが、「文法的知識を体系化させるために特定の項目を通読する」というのが、翻訳学習者にとってはお勧めの使い方です。まずは「名詞構文」のページから読んでみて下さい。
・Practical English Usage(Michael Swan, Oxford University Press)
英語ネイティブが英語ノンネイティブ用に、英語で書いた文法書の定番。
英語圏に留学した際によく推薦される本のようです。私自身は予備校の仕事を通じて本書の初版を、一部暗記するくらい使い倒しました。版を重ねるごとに分厚くなり、現在は初版に比べて通読はかなり難しくなりましたが、『英文法解説』とともにぜひ読み込みたい本です。冠詞の説明("you know which one")など苦しみ抜いた記述が秀逸です。
・『表現のための実践ロイヤル英文法』(綿貫陽、マーク・ピーターセン、旺文社)
日本語で書かれた網羅系文法書の新定番。「英語ネイティブが日本語で書いた文法書」という新機軸を打ち出しました。『英文法解説』と並ぶ定番文法書に『ロイヤル英文法』がありますが、その進化版です。
日本人が理解しにくい細かいニュアンスへの言及がちりばめられていて、そこを拾い読みするだけでも役に立ちます。なお、マーク・ピーターセン『日本人の英語』(岩波新書)も、冠詞や態など、日本語ネイティブが苦手とする文法事項を鮮やかに説明した名著です。
・『ウィズダム英和辞典 第2版』(三省堂)
最近は、上級学習英和辞典が文法書の機能も持ちつつあります。辞書を文法書として使うと、文法項目ではなく、語を単位にして文法を体系化することができます。should、as、mightなど、助動詞や接続詞などは、案外辞書のほうがしっかり理解できるようにも思います。また本書は意味の配列が頻度順になっており、「こういう意味のほうが頻度が高いんだ」といった発見があります。
・『ジーニアス英和辞典 第4版』(大修館書店)
文法書の性質を持つ辞書のはしり。翻訳者としては、ジーニアス大辞典よりも中辞典のほうが、文法書としての使い勝手はよいように思います。個人的には、四版よりも三版のほうが情報量が適度で使いやすいかな・・・?という印象です。
第34回:Stay hungry, stay foolishの訳は「ハングリーであれ、愚かであれ」なのか?
第32回:8/25開催「仕事につながるキャリアパスセミナー~受講生からプロへの道~」より
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第22回:セミナー「新たに求められる翻訳者のスキル」(前編)
第19回:翻訳Hacks!~初めて仕事で翻訳することになった人へ~
第16回:英日併記されたデータから、原文のみを一括消去する方法
第15回:翻訳者的・筋トレの方法(新聞の読み方、辞書の読み方)
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