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プロ通訳者・翻訳者コラム

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成田あゆみ先生のコラム 『実務翻訳のあれこれ』 1970年東京生まれ。英日翻訳者、英語講師。5~9歳までブルガリア在住。一橋大大学院中退後、アイ・エス・エス通訳研修センター(現アイ・エス・エス・インスティテュート)翻訳コース本科、社内翻訳者を経て、現在はフリーランス翻訳者。英日実務翻訳、特に研修マニュアル、PR関係、契約書、論文、プレスリリース等を主な分野とする。また、アイ・エス・エス・インスティテュートおよび大学受験予備校で講師を務める。

第7回:翻訳者の時間感覚

何年か前の翻訳雑誌に「翻訳者の生活を大公開!」といった内容の特集がありました。
興味本位で立ち読みしたところ、そこには信じられないような華麗な翻訳者ライフが…

「田舎でロハスな自給自足+翻訳業で悠々自適」
「完全に昼夜逆転、起き抜けの風呂にはローズオイル、
風呂上がりにはシャンパンのミニボトルが欠かせない」
「フリルのカーテンごしに午後の日差しが注ぐリビングで、
アールグレイ片手に翻訳するひととき」

・・・・・・

・・・・

・・

我が身とあまりに境遇が違いすぎる!! これは何かの陰謀に違いない!!
と心の中で必死に打ち消しましたが、これらの例は、翻訳者につきまとう「優雅で自由に仕事をしているイメージ」を端的に示していると言えます。

実際のところ、「好きな時間に家で出来るから」という理由で翻訳者という仕事に興味を持つ人は少なくないと思います。
そこで今回はこの「好きな時間に家で仕事をする」というのが実際にはどういうことなのか、赤裸々に?紹介してみたいと思います。

☆ ☆ ☆

いきなりばっさり行きますが、
「家事の合間にちょこっとできる、優雅で知的でおしゃれな仕事」
というイメージは、実際の実務翻訳者とは最も遠いと言わざるを得ません。

そもそも実務翻訳には締切があります。
締切のある仕事が、優雅にできるはずがありません。
場合によっては何もかも放り出し、締切のために没頭しなければならないこともあります。

通勤もなく、家で仕事をしていますが、時間感覚は分刻みです。
実務翻訳の場合、締切は日にちではなく時刻です。
15分遅れたら、翻訳会社から電話がかかってきます。

「そんなに仕事を入れなければいい」
という意見もあることは重々承知しているのですが……
でもフリーランスは、基本的には仕事の量を選べないと思います。

実務翻訳者は、「2回断ったら次の依頼はない」という前提で仕事をしています。
仕事がないと心がすさむし、断ればいつまでも後悔が残ります。
ですので、よっぽど無理でない限り、依頼された仕事は引き受けます。

フリーランスでコピーライターをしている友人が
「フリーだと、仕事があるときは締切に追われてプレッシャーだし、仕事がないときは『このまま永遠に仕事が来ないのかな?』と思ってプレッシャーで、気が休まるときがない」
と言っていましたが、業界は違っても締切のある仕事は同じなんだなと思いました。

「自分は育児が(介護が)あり、少ししか働けないんです」
という相談もよく受けるものです。
これは、ワークライフバランスに関わる、難しい問題だと思います。
本当は、育児(介護)と仕事が問題なく両立できる社会であるべきなのですが・・・

経験から言えるのは、
「ある程度うまくなったら両立は不可能でないかもしれないが、最初のうちはかなりの量を集中してこなさないとうまくならない」ということです。

最近ちまたで「1万時間説」というのをよく聞きますが、これは翻訳にもあてはまるように思います。
(1万時間説とは「初心者が一通りの専門知識を身につけるのには1万時間かかる」というものです。
スポーツ選手や演奏家は幼い時期に1万時間(毎日3時間を9年強)の練習を積んでいるとか、研究職の世界では学部4年から修士修了までの勉強時間が1万時間(毎日10時間を3年弱)なので、そう言われるようです。)

翻訳も、1日8時間、週5日、年に50週訳したとして、年間2000時間。
これを5年続けると1万時間になります。

これが例えば、午後のひととき(1日1時間)しか訳さないとしたら・・・一生かかってもなれないことになってしまいます。
本気で仕事にしたいなら、最初の1万時間はできるだけ集中的に取り組んだほうが力もつくと思います。
そして、1日8時間・週5日、確実に訳し続ける方法とは、やはり派遣などの形を利用して社内翻訳者になることです。

また、「いつでも自由に仕事ができる」というのは魅力的に聞こえますが、
実はこれは「いつも仕事が頭から離れない」のとほぼ同義語です。

少し前に「1日30分の勉強で資格がとれる」という宣伝がありました。
これは嘘ではないと思いますが、ひとつ前提があるように思います。
それは、本当に1日30分の勉強時間を捻出するためには、朝起きたときから夜寝る時まで、常に勉強のことを頭の片隅におき、隙あらば机に向かうくらいの意志の強さが必要だということです。

そうでなければ、たった30分とはいえ、勉強時間を確保することは不可能でしょう。
何しろ30分なんて、ネットでも見ていれば一瞬です。

育児などのように、時間をカリカリ気にしてたら務まらないものと、翻訳のように非常に厳格な締切がある仕事は、慣れないうちは精神的な部分でかなり両立が難しいことは事実です。
そういう意味でも、翻訳という仕事の進め方を体得するまでは家に仕事を持ち込まない、つまり社内翻訳者になるのは、正しい選択と言えます。

☆ ☆ ☆

ここまで脅しみたいな話ばかり続けてきましたが、もちろん良いこともあります。
締切を無事に超えた後の脱力感(笑)。労働の後のビールはうまい!

・・・ちょっと話が先走りました。
フリーランス翻訳者にとっての時間感覚は、普通とはちょっと違うかもしれないと思う点がいくつかあります。次にそれらを紹介してみたいと思います。

例えば、翻訳者は自分の翻訳スピードをかなり正確に把握しています。
具体的に言うと、分野ごと・クライアントごとに、1時間で何ワード訳せるかを把握しているものです。

実際の翻訳作業は、1時間ごとに訳した語数を数えながら進めていきます。
マラソン選手が区間タイムを計測するのと同じ感覚です。

翻訳スピードを把握しているため、
「このファイルには何時間かかるか」「今の仕事はあと何時間で終わるか」
といったことを、かなり正確に予想できます。
締切に向かってガーッと集中力を高めていき、締切前にぴたっと完成して納品できたときなどは
「決まった!」という達成感があります。

また、「24時間は均質ではない」ということも大きな発見でした。
一頭の牛にもさまざまな肉質の部位があるように(?)、24時間は均質ではありません。
生産性の高い時間と、低い時間があります。
生産性の高い時間はまさしくゴールデンタイム。一頭からほんの少ししかとれない極上のナントカ肉と同じ、わずかしかない貴重な時間です。

翻訳は「朝のほうがはかどる」という人が多いように思います。
私の場合もそうで、早朝、または翻訳開始後5~8時間(もはや朝ではありませんが)がゴールデンタイムです。
この時間はスピードも出るし、訳語も面白いように出てくる、まさにランナーズハイならぬ翻訳ハイの時間です。
翻訳ハイはすごく密度の濃い時間で、終わった後、短い時間で遠い所まで行ってきたような、浦島状態(の逆?)のような不思議な気分になります。

☆ ☆ ☆

そして翻訳と時間の関係についての、自分にとって最も大きな発見は、
「翻訳にかけた時間と質は必ずしも比例しない」
ということです。

駆け出しの頃、翻訳にはとにかく時間がかかりました。
日本語の語彙が今より少なかったですし、ビジネス英語の言い回しにも習熟していなかったので、読解にも訳出にも膨大な時間がかかり、時給に直すと200円くらいのこともありました。

派遣に出る少し前、スクールの先生からOJTの仕事を回してもらいました。
提出したときに、所要時間を聞かれました。
べらぼうに時間がかかっていたことは確かだったのですが、当時は記録をつけていなかったので、すぐに数字を言うことができませんでした。
サバを読みたい気持ちも働き、つい適当な時間を言ってしまいました。

私の答えを聞いた師匠は、向き直って私に言いました。

「駆け出しのあなたが、たったそれだけの時間で済むはずがない。
せめて時間だけはベテランの何倍もかけないと。
それでも今のあなたの訳は、ベテランの1周目の訳には届いていないのだから」

時給200円にして「たったそれだけの時間」・・・・・・しかし私は年々、師匠の言葉の正しさを実感することになるのでした。
駆け出しが、経験豊富なベテランと同じ訳を同じ時間でできるほど、翻訳業は甘くないのです。だからこそ続けがいがあるわけですが。

師匠の訳は文に勢いがあり、歌うような訳でした。
私のボロボロの下訳とは、天と地ほども違います。
「いったいどうやったら先生のような訳になるんだろう?」
当時はいくら考えてもわかりませんでした。

そのころ考えていたのは、
(1)気分転換してリフレッシュしたほうがよかった。
(2)早めに始めて一晩寝かせる。その方が客観的な推敲が出来る。
(3)日本語の写経。訳す前に似た分野の日本語の文章を少し書き写してから訳す。
(4)関連する本やサイトを読んで、知識を強化する。

要するに、まだまだ時間と手間をかける余地がある、ということでした。

この件に関しては、当時の自分の前にタイムマシンで押しかけて教えてやりたいと思うほどです。
「あんたは訳をいじりすぎ。知識も経験もだけど、何よりもっと集中力が必要。
スピードと訳質は両立するのだから」と言ってやりたいです。
上の箇条書きは確かに大切ではありますが、それよりも大切なのは集中力です。

当時は、とにかく一回訳を作り、それから訳を何回も何回も読み直して、もっといい訳語はないか、ちくちくと考え続けていました。
しかし実のところ、翻訳というのは最初の切り出し方が非常に重要で、ここで間違うと、後からいくら手を入れてもリカバリーは非常に困難です。
まさにToo many cooks spoil the broth. 手のかけすぎはかえって逆効果です。

むしろ文章の鮮度を落とさないよう、一回の訳でぴたっと決める境地を目指さないといけません。
寿司職人が、一回の包丁で完璧に刺身を切り出すのと同じです。
もちろん推敲は欠かせませんが、「いいからとにかく切る、きれいに整えるのは後から」という発想では読める訳にはなりません。
深く集中して深く理解し、静かにすぱっと切り出して、それで完成、という心構えが必要です。

ここでは深い集中がポイントです。
疲れていたり、だらだらと原文に向き合っていたりしては無理です。
また、「なんでだめなの? なんで?!」という黒い心も訳質を落とします(が、これについて話し出すと終わらなくなるので、また別の機会とします)。

こうなると、原文を前にした時、いかに「良い集中」ができるかが鍵になってくるわけで、翻訳者はさながら修行僧の様相を呈してきます(笑)。
集中のためになる食べ物を食べる(甘い炭水化物、玄米食など)。
精神衛生上悪い相手とは深くつきあわない。
適度な集中を長く保てるよう、呼吸や姿勢に気をつける。
など、さまざまな工夫をするようになります。

ある程度の知識と経験に加え、集中力が身につけば、気がつくと当初の数分の一の時間で、当初よりもうまい訳ができるようになります。
「速いのにきれいな訳」ではなく、「速いからこそきれいな訳」ができるようになります。

ここ数年、私の業務開始時間は朝5時です。子が生まれてから朝型になりました。
締切までの残り時間によって、4時30分、4時…と前倒しになっていきます。

起床してコーヒーをいれます。お湯が沸く間、深呼吸などして目を覚まします。
そして起床10分後には訳し始めます。
朝の1~2時間は街も静かで、頭の疲れもなく、淡々と訳の進むすがすがしい時間です。
そのうち朝日が昇ってきたりすると、「今日も仕事があってありがとう」と自然に感謝の念もわいてきます。
6時半には早朝の部の仕事は終了です。
優雅なロハスとは違いますが、朝6時に集中のひとときを迎えるというのは、悪くないものです。

第35回(最終回):翻訳は何に例えられるか?

第34回:Stay hungry, stay foolishの訳は「ハングリーであれ、愚かであれ」なのか?

第33回:ISS翻訳カフェ:社内翻訳者座談会より

第32回:8/25開催「仕事につながるキャリアパスセミナー~受講生からプロへの道~」より

第31回:翻訳は男子一生の仕事となりし乎?

第30回:フリーランス翻訳者、PTA役員になる

第29回:翻訳者就活Q&A

第28回:「頑張れ」を英語で訳すと?

第27回:アラサーのあなたへ

第26回:ラテン英語入門・後編

第25回:ラテン英語入門・中編

第24回:ラテン英語入門・前編

第23回:海野さんの辞書V5発売!!+セミナー「新たに求められる翻訳者のスキル」(後編)

第22回:セミナー「新たに求められる翻訳者のスキル」(前編)

第21回:愛をこめて引き算をする

第20回:点について、いくつかの点から

第19回:翻訳Hacks!~初めて仕事で翻訳することになった人へ~

第18回:修羅場について(子が熱を出した編)

第17回:初心者に(も)お勧め・英日翻訳の技法本3冊

第16回:英日併記されたデータから、原文のみを一括消去する方法

第15回:翻訳者的・筋トレの方法(新聞の読み方、辞書の読み方)

第14回:原文の何を訳すのか?

第13回:むかし女子学生だった者より

第12回:『ワンランク上の通訳テクニック』連動企画(笑):Q&A特集

第11回:読書、してますか? (無料診断テストつき)

第10回:伝える意志のある言葉~インド英語入門・後編

第9回:インド人もびっくり?! インド英語入門・中編

第8回:Listen until your ears bleed! ~インド英語入門・前編

第7回:翻訳者の時間感覚

第6回:翻訳と文法

第5回:翻訳と受験和訳、二足のわらじ

第4回:辞書について(2)~アナログの効用

第3回:辞書について

第2回:順境のとき、逆境のとき

第1回:はじめまして

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