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プロ通訳者・翻訳者コラム
気になる外資系企業の動向、通訳・翻訳業界の最新情報、これからの派遣のお仕事など、各業界のトレンドや旬の話題をお伝えします。
成田あゆみ先生のコラム 『実務翻訳のあれこれ』 1970年東京生まれ。英日翻訳者、英語講師。5~9歳までブルガリア在住。一橋大大学院中退後、アイ・エス・エス通訳研修センター(現アイ・エス・エス・インスティテュート)翻訳コース本科、社内翻訳者を経て、現在はフリーランス翻訳者。英日実務翻訳、特に研修マニュアル、PR関係、契約書、論文、プレスリリース等を主な分野とする。また、アイ・エス・エス・インスティテュートおよび大学受験予備校で講師を務める。
第21回:愛をこめて引き算をする
毎日本当に暑いですね!!
そんななか、なぜか急に思い立ち、10年来たまってきた読まない本の大量処分を決行しました。
小さな仕事部屋の四方の壁を三重くらいになって占拠してきた本、数千冊を捨てました。
すると本当に驚いたことに、一回捨てるたびに、新しい仕事の話が入ってきたのです。
世の片付け本に「捨てると新しい縁が入ってくる」とあるのはこのことかと、実感して怖くなったほどです。
あと本棚1段分、捨てられそうな本があるのですが、今度仕事が減ったときのためにとっておこうと思っています(笑)。
さて、表題の「引き算」とは、本を捨てることではありません。
翻訳における引き算の話です。
☆ ☆ ☆
以前、ラーメン屋の店主さんが次のようなことを語っているのを、何かの雑誌で読みました。
ラーメン屋初心者は「足し算」をしがちである。
知っているあらゆる具材をとにかく投入する。必要のないものを加える。
これではがちゃがちゃしているだけで、そもそも美味しくない。
その次の段階として、「かけ算」がある。
複数の素材をかけ合わせることで、まったく新たな味が生まれることがある。
1たす1が2ではなく全然別のものになるような、そんな次元を追究し始める。
これだけでも奥が深いのだが、自分は今さらに「引き算」を考えている。
余計なものを入れないことで、全体の調和を追求する段階だ・・・
といった内容だったと記憶しています。
これを読んで、翻訳もまったく同じだと思いました。
☆ ☆ ☆
翻訳を始めたばかりの人は、「足し算の訳」をしがちです。
原文のすべての語のニュアンスを、これでもかと強力に訳したり
(読み手はとても疲れます)、
かっこいい訳語を思いついたら、前後関係を無視してでもその言葉に固執したり
(周囲の表現から浮くし、下手すると誤訳に見えます)
調べた内容を全部訳に入れたり
(必要以上の説明は読者をイライラさせます)。
よくて食傷気味、最悪の場合は肝心の麺にたどりつけないような訳です。
翻訳において「足し算」は慎むべきものです。
「足し算」はいけないと知った翻訳者はやがて、言葉の「かけ算」について考え始めます。
食べ物の組み合わせによって、両者のおいしさが増幅することはよく知られています。
麺とスープ、ワインとチーズ、コーヒーとお菓子など…
同じことが、言葉でも起こります。
表現の組み合わせによって”相乗効果”が生まれ、字面以上のことを表現できることがあるのです。
こうした相乗効果について考えるのは難しいですが、翻訳者にとっては楽しい面も多々あります。
ひょっとしたら、翻訳の醍醐味ですらあるかもしれません。
足し算、かけ算と来ましたが、本当に難しいのは「引き算の訳」。
訳における引き算には、かけ算以上に終わりがありません。
☆ ☆ ☆
引き算について語ろうとすると、ここまで以上に抽象的な話になってしまうのですが・・・
翻訳は短ければ短いほどよいと言われます。
同じことを言うなら、言葉数が少ないほうが、翻訳というのは基本的には分かりやすいものです。
一方、実務翻訳では、原文の情報量や内容は、あくまで細部まで正確に伝えないといけません。
そうしようと思うとどうしても、言葉を尽くして伝えたいという欲求が生まれがちです。
つまり、翻訳者の中には、「余計な言葉を削りたい」と「言葉を目一杯使いたい」という相反する思いが生まれます。
この両者の間でバランスのとれる、ちょうどいい地点を追求するのが、引き算の訳です。
誤解されがちですが、「引き算」とは「原文の情報を抜かす」という意味ではありません。
それはある意味、足し算の訳よりも不誠実な行為です。
原文と同じ情報を伝えることは翻訳の大前提です。その情報を、必要最小限の言葉数で伝えようというのが「引き算」です。
私は料理はうまくないのですが、言葉の引き算というのは塩加減や火加減に似ているなと、料理しながらいつも思います。
過剰も不足もない、言葉の加減がぴたっと決まる地点があるのです。
引き算の加減は、自分でその都度、見極めていかなければなりません。
そこに正解はありません。だからこそ難しいし、面白くもあります。
しかも、最も重要なことに、引き算は愛をこめて行わなければ、まったく意味がありません。
愛といって抽象的すぎるなら、書き手と読み手への思いやり、誠意、伝えたいという気持ち、と言ってもかまいません。
翻訳者は、書き手への愛をこめて原文の核心をつかんだら、読み手に核心が伝わるよう愛をこめて必要なだけの言葉を使います。
愛のない訳文は、読んでいても内容が伝わらないため、読者はいまいちのれません。
逆に、愛をこめて言葉を抑えた引き算の訳は、読者を心地良い気分にさせます。
☆ ☆ ☆
ここから先は、先ほどのラーメン店主が語っていない、しかも厳しい話を、おせっかいであえてしてみます。
引き算の訳ができるには、そもそも引き算ができるくらいの広大な言語大陸を、自分の中に持っていないといけません。
英語大陸はもちろん、日本語大陸も必要です。
そして広大な日本語大陸を持つには、(矛盾に聞こえるかもしれませんが)一度は「足し算の日本語」の段階を経る必要があるのです。
特に英日翻訳の場合、アウトプットは日本語なので、日本語で目一杯背伸びした言葉を使った経験、日本語を徹底的に直された経験など、とにかく日本語で(と)格闘した経験がないと、引き算の段階に至るのは難しいようです。
しかも、その格闘は、できれば人生のかなり早い段階から行っているのが望ましいようです。
しつこくも食べることに例えると、おいしいものだけでなく、失敗作もたくさん食べているイメージです。
最初から引き算はできません。試行錯誤、特に足し算の試行錯誤の末、引き算に至るのだと思います。
さらに厳しい話になりますが、
英語力は翻訳者にとって柱となる技術なのですが、翻訳者になりたいと言う人のなかには、それだけの英語力がない人が実は多いのです。
実務翻訳者になるということは、舌の肥えたお客さんになることではなく、お客さんにラーメンを出す側に回ることを意味します。
かなり舌が肥えた人でも、いざ自分が厨房に立ってラーメンを作ってみろと言われたら、売り物になる1杯のラーメンを作るのは至難の業だと知ることでしょう。
翻訳もそれと同じです。
英語に自信のある人、さらには足し算の訳やかけ算の訳を見てそう判断できる人でも、そういう訳を自分でして、しかもお金をもらうとなると……言いにくいことですが、その厳しさはたぶん想像を絶すると思います(苦笑)。
だのに、翻訳を仕事にしてみようかなと思う人のなかには、お客さんのまま作り手になれると思っている人が本当に多いのです。
翻訳者としては、たとえ訳語を生み出す厨房は厳しくても、いつも愛をもって引き算をしたいと心がけています。
・・・すみません、文章の引き算はまだまだの私です! 今回はこのへんで。
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