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『欧州通訳の旅、心得ノート』 一緒に通訳の新しい旅に出ませんか? 寺田千歳

第5回

欧州の「ドクター敬称」事情

みなさま、こんにちは。寺田です。
コラムを執筆中、英国王室のフィリップ殿下がご逝去されました。そこで彼の経歴を読みながらふと感じたヨーロッパらしさを前置きにお話しいたします。結婚するまでのフィリップ殿下は、王族出身に関わらず、幼児期から4カ国を転々とすることを余儀なくされ、言語はいうまでもなく、複数の宗教・慣習・価値観に影響を受けていると思われ、その生い立ちは20世紀ヨーロッパの激動の波に翻弄されたものでした。ドイツ系貴族の家系にギリシャ・デンマーク王子として生まれ、ギリシャ>パリ>ドイツ>英国における亡命生活中、英国の海軍士官学校で教育を受け、英国海軍から従軍しドイツ軍と闘いました。同時に、英国王家の血を引くドイツ貴族の母をもち、4人の姉はドイツ貴族に嫁入りしており、ドイツに親戚関係があることから、英国とドイツ両国のメディアで殿下の生涯について特集が組まれました。ちなみに、ドイツの貴族や庶民から欧州の王家に嫁婿入りし、第二の祖国で活躍する例は中世から現代まで後を絶たず、オランダの元女王は、父親と王配の両方ともがドイツ貴族出身で、現スウェーデン王妃もドイツの方です。異国の国民に受け入れてもらうという使命を全うするため、新しい国に自分を合わせる一方、生い立ちの課程で胸に刻まれた価値観も大切にしながら次の世代につないでいく、このような彼らを「どこの国の人」と限定できない。ここに、欧州における国境を越えた「目に見えないつながり」を感じます。EU内でよく耳にする、Pluralism(多元的共存・複数性)の精神は、このような複数の文化や価値観を持ち合わせる人たちの計り知れない苦悩や努力の上に培われてきたもので、それこそが今日の一体化したヨーロッパ、つまり、現代の汎ヨーロッパ主義だと思うのです。そして、その汎ヨーロッパ主義を提唱したのが、日本生まれで日本人の母を持つ欧州貴族のクーデンホーフ・カレルギーです。スケールこそ違えど、複数の言語・文化を理解し、異なる価値観の橋渡しをする通訳者も、今後の日本と世界のPluralismの発展に貢献できるのではないでしょうか。

  

さて、今回の本題、敬称の使い方に入りたいと思います。フィリップ殿下は英国のルールに則りHRH(His Royal Highness=殿下)の敬称で呼ばれました。欧州では、同様に、博士号を持つ方の名前を呼ぶときに、日常的に敬称を使う国もあります。では、その前に、欧州のお名前からみていきたいと思います。

 

欧州の名前は、近年は苗字がダブルネームで長くなったり、歴史的な理由で祖先が他国出身の場合も多く、発音が難解な場合もあります。例えば、ドイツでは、歴史的にポーランドをはじめ、スラブ系・フランス系移民の苗字もよくみられますし、戦後以降は、トルコ・イタリア・ギリシャ移民も多く、現在2・3代目が現役世代として活躍しています。例えば、英語で会議をする時は、スラブ系の名前の場合、名刺ではPetr(ピョートル)でも、「I am Peter.」と自己紹介したり、ドイツ人で名刺ではKatrin(カートリン)でも、「I am Catherine.」と英語名のファーストネームを使う方もいます。特に、ギリシャやハンガリーの名前は読むのが難しい印象です。実際、ファーストネームでGerman(ヘァマン)、ラストネームでBerakoitxea(ベラクチェア)という名前は秘書の方に確認しないと読み方が分かりませんでした。ドイツの政治家Sabine Leutheusser-Schnarrenberger氏(ザビーネ ロイトホイザー=シュナーレンベルガー)の名前は極めて長いにも関わらず、ドイツ語のリズム感がよいため、意外にとても覚えやすく、発音しやすいですが、ドイツ語に慣れていない場合は難しいかもしれません。よって、会議の参加者リストや名刺を入手したら、読み方と呼び方を前もって確認した方が不安がないでしょう。 また、欧州のビジネスシーンで、もう一つ確認しておきたい点は、博士の肩書きの有無でしょう。昨今米国メディアではDr. Fauci氏の名前をよく耳にしますが、欧州で通訳をしていると、博士号を持った方が多いことに気づきます。統計では、特に英国とドイツが多いそうです。ドイツ語圏のように博士の肩書きが日常的に使われている国では、名刺はもちろん、自宅の表札にも敬称が明記されているなど、敬称をより重視する文化があります。では、医学博士以外にどのような博士がいらっしゃるのでしょうか。業界差も大きいですが、私が多く関わった会議の参加者に多かったのは、工学・医学・薬学・法学などの分野の博士でした。ドイツでは、名刺を見れば、名前の前に「Dr.xxx」表記があるため、「Dr.」で博士であること、そして、次にくる「xxx」でその分野が簡単に分かります。

 

Dr. med. 医学博士
Dr. jur. 法学博士
Dr. -ing. 工学博士
Dr. pharm. 薬学博士
Dr. rer.nat. 理学博士
Dr. phil. 哲学博士
Dr. rer.pol. 政治学博士
Dr. oec. 経済学博士

 

ミュラー工学博士の場合は、英語の会話では、Dr. Mueller と呼びますが、参考までに、ドイツ語の場合は、Dr.の前に英語のMr.に相当する敬称Hr.をつけますので、Hr. Dr. Mullerになり、さらに大学教授の肩書きを得ている場合は、Hr. Prof. Dr. Mullerとなり、Muller教授が別の分野でも博士号を取得しているダブル博士の場合、Hr. Prof. Dr. Dr. Muellerとなり、Dr. が2回連続します。ドイツ語圏の方に英語で通訳をする場合は、英語では敬称をどうするのか、先方に確認されたほうがいいでしょう。

  

では、ドイツ語圏や英国で博士号取得者の割合が高いのは、個人的な経験からいうと、欧州の対日ビジネスの場でお会いする方は、概して修士号以上の学歴をお持ちで(修士号の学歴も分野を含めて名刺に記載があります。敬称は付きません。)、その中でも博士号を持っている方が組織の幹部への昇進に有利だと考える人も多いからのようです。また、矛盾しているように思えますが、そのドイツでは医学博士号を取得せずとも医師になれるため、Dr.の敬称がつかない医師もいらっしゃいます。つまり、彼らはいわゆるドクター(医師)であるにも関わらず、Dr. Mullerと呼ばれずにMr. Mullerと呼ばれます。ある病院で看護士さんに「Dr. Mullerの担当はいつでしょうか?」と聞いたところ、「Mr. Mullerですね、あと1時間後に来られますよ。」と返ってきました。目の前にいる医師をドクターと呼べないことに、違和感を感じたことを覚えています。ゆえに、肩書きを持っている医学博士の場合は、敬称を忘れないよう注意が必要だそうです。事前の確認もそうですが、実際に呼びかける毎に敬称をつけ忘れないようにすることも大切です。私は以前、大阪市の式辞で日独通訳した際、ドイツ・ハンブルク市長への挨拶の呼びかけが「Dear+Mr+市長+博士+ラストネーム」、となり、単語数がドイツ語だと7つ(Dearと市長がそれぞれ2語から成る)になり、極めて長く、順番を間違えないよう何度も練習したことを覚えています(本例では英単語に置き換えています)。ハンブルクも、正式名は「自由ハンザ都市ハンブルク」と長いです。
また、ドイツ語圏でDr.敬称になぜそこまでこだわるのか聞いてみたところ、社会的な信用が高くなると考えるからだそうです。ドイツの著名人の博士号論文で盗用が確認されたリスト(博士号剥奪処分となった事例)によると、2000年以降、論文盗用が確認された19人うち13人が有名な政治家だったということですから、この肩書には特別な威力があるようです。

  

あとがき
冒頭で外国の王家に嫁婿入りして活躍するドイツ人の例を挙げてみましたが、現代では通訳者が王家や政界の著名人に嫁入りする例もみられます。スウェーデンのシルヴィア王妃は、ブラジル人の母をもつドイツハーフで、なんと6ヶ国語を操る才女。ドイツ語・ポルトガル語・フランス語・スペイン語・英語、そして、スウェーデン語は第6言語だそうです。ミュンヘンの通訳学校で学び、当時まだ王子だったグスタフ国王との馴れ初めは、ドイツのオリンピックでアテンド通訳をしていた時だとか。近年では韓国のドイツ語トップ通訳者のキム・ソヨン氏がドイツの大物政治家シュレーダー元首相と結婚し、ドイツで話題になりました。シュレーダー氏に同伴して行事に出席されたりと、ドイツでも大いに活躍されている才色兼備のソヨン氏ですが、実は韓国外国語大学通翻訳大学院で博士課程を取得されているそうです。やはり「博士」は強し、といえるのではないでしょうか。

 

今回はここまでです。次回は欧州で名前を呼ぶときのポイントについてお話いたします。

 

参考ソース(日独英)
https://www.nistep.go.jp/
主要国の博士号取得者数を人口100万人当たりで見ると(図表3-4-3)、日本は2016年度で118人であり、他国と比べてと少ない数値である。 他国の最新年の値を見ると、最も多い国は英国(360人)、次いでドイツ(356人)である。最も少ない国は中国(39人)である。 2008年度と各国最新年を比較すると、日本以外の国は全て増加している。大きく伸びているのは、順に、韓国、米国、英国である。 専攻別に見ると、博士号取得者の場合、各国とも自然科学の割合が大きくなる。日本やドイツは「自然科学」の占める割合が多い傾向にある。対して「人文・社会科学」の割合は、他国と比較するとフランス、韓国で多い。
https://de.wikipedia.org/wiki/Liste_akademischer_Grade_(Deutschland)#Doktorgrad
https://de.wikipedia.org/wiki/Philip,_Duke_of_Edinburgh
https://ja.wikipedia.org/wiki/リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーhttps://de.wikipedia.org/wiki/Liste_deutscher_Dissertationen_mit_Plagiaten
https://en.wikipedia.org/wiki/Queen_Silvia_of_Sweden
https://s.japanese.joins.com/JArticle/233708?sectcode=410&servcode=400
https://de.wikipedia.org/wiki/Bernhard_zur_Lippe-Biesterfeld
 

寺田千歳 1972年大阪生まれ。日英独通訳者・翻訳者。ドイツチュービンゲン大学留学(国際政治経済学)、米国Goucher College大(政治学・ドイツ語)卒業後、社内通訳の傍ら通訳スクールで学び、 その後、フランスEDHEC経営大学院にてMBA取得。通訳歴20年内13年ドイツを拠点に欧州11カ国でフリーランス通訳として大手自動車・製薬メーカーのR&D、IRやM&A、 日系総研の政策動向に関する専門家インタビュー等を対応。現在は日本にてフリーランス通訳者。

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