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徳久圭先生のコラム 『中国語通訳の現場から』 武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。出版社等に勤務後、社内通訳者等を経て、フリーランスの通訳者・翻訳者に。現在、アイ・エス・エス・インスティテュート講師、文化外国語専門学校講師。

第3回:知識永遠不嫌多──外語を話せれば訳せるか

ひところに比べればやや落ち着いたとはいえ、春節(旧暦のお正月。今年は1月28日でした)の休暇期間には東京の街でも観光客とおぼしき華人(中国系のルーツを持つ広範な人々の総称です)のみなさんを多く見かけました。ぜひこの機会に、日本の魅力的なところ、そしてまだまだ至らないところも、まるごと見て行っていただきたいですね。

毎年この春節休暇が近づくと、急増する華人観光客への対応ということなのでしょう、ネットで登録している派遣業者のサイトから、語学関係の求人が数多くメールで送られてきます。かつてその中に、以下のような説明文を載せている求人広告がありました。

「スポーツ用品ショップにて中国人のお客様対応をお願いします。中国人のお客様の要望をヒアリングし、日本人の販売スタッフへ日本語に通訳するだけ! 商品知識は全く必要ありません!」

いかがでしょうか。「通訳するだけ!」「商品知識は全く必要ありません!」と感嘆符つきで強調された最後の部分からは、通訳という仕事に対する素朴な誤解を見て取ることができます。中国語や英語などの外語を聞き取ることや、それらを日本語に訳すことなど簡単なのだという誤解。そして通訳者とは、その耳に言語Aを吹きかければ、自動的に口から言語Bが飛び出してくる機械のようなものなのだという誤解です。

実際、私も仕事の現場でお客様から、「通訳さんって、いい商売だよね。口先でチョロチョロっとしゃべって、高い日当がもらえるんでしょ?」と言われたことがあります。特に悪気はなさそうな口調でしたが、要するに二つの言語を話すことができさえすれば、通訳なんて誰にでもできる──そう思われる方が、世間には一定程度いらっしゃるようなのです。

通訳業務の前に資料や情報の提供をお願いすると、「言ったことをそのまま訳してくれればいいから」とか「ごく基本的なことだけで、難しいことはしゃべらないから」とおっしゃるお客様もいます。もちろん、言葉が発せられる以上、どんな発言にも訳せる部分はあります。ありますが、上述の広告のように「商品知識は全く必要ありません!」をそのまま信じて現場に出れば、訳出の精度はかなり落ちてしまうでしょう。

例えばこの「スポーツ用品ショップ」へお越しになる外国のお客様は、わざわざ日本までやって来て、本国では手に入らない仕様の、本国より割高なスポーツ用品を買おうとしているのかもしれません。そんなお客様の気持ちに応えて販売スタッフが、「こちらのスニーカーはフィットネスヘリテージをコンセプトに開発されたVintageパックで、レトロテイストなアッパー素材やクラックドサイドストライプやユニオンジャックをシュータンに施した今シーズンの注力コレクションです」などと説明したらどうでしょうか(実はこれ、とある高級スニーカーのカタログに載っている文章です)。

実際には店頭販売でそこまで説明しないかもしれません。通訳者も「この靴、いいです。おすすめです。お安くしておきます」くらいが言えればよいのかもしれません。「とにかくいろいろと細部にまでこだわった、いま流行のすごくいい靴なんです!」くらいに「超意訳」することならできるかもしれません。でも海外へわざわざ高級スニーカーを買いに来るお目の高いお客様や、商品に自信と誇りを持っている販売スタッフだったとしたら、はたしてこの訳出で満足されるでしょうか。

また、これは私が実際に遭遇した例ですが、海外のとあるプラントの工事現場で、日本人の技術指導員が現地の作業員にこんな指示をしたことがありました。「あのさあ、向こうのあれ、ああしておくのは何だから、何とかしちゃってよ」。みなさんが通訳を担当しているとしたら、どのように訳されますか?

指示代名詞が満載のこの発言を、それこそ文字通り「言ったことをそのまま訳」すことも不可能ではないでしょう(“那邊的那個,有點太那個了……”などと)。でも、訳してどうする、という感じですよね。「向こう」とはどこか、「あれ」とは何か、「ああしとくのは何だ」とご不満な様子の原因は何か、「何とかする」とはどういう作業を意図しているのか……などが分からなければ、コミュニケーションの仲立ちをする通訳という作業は成立しにくいのです。

こうした例から見えてくるのは、通訳とは単にある言語から異なる言語へ変換する「だけ」の作業であり、要するに「話せれば訳せる」という信憑です。実際には、通訳する前に膨大な量の背景知識(専門用語、技術用語、商品知識など)を予習する必要があり、時にはたった一つのジャーゴン(業界用語)が通訳者の命取りにもなりかねません。

通訳者は毎回の業務に先立って膨大な量の予習を行います。予習の充実がよりよい通訳業務を担保すると言っても過言ではなく、「高い日当」はその予習に割く時間も考慮した上での設定だとお考え頂きたいのですが、そうした通訳業界での「常識」も、残念ながら一般のお客様に広く認知されているわけではないようです。

……ただし、「話せれば訳せる」わけではないとはいえ、「話せなければ訳せない」のもまた事実。では通訳者にとって二つの言語が「話せる」とはどういうことなのでしょうか。これについては、また回を改めて考えてみたいと思います。

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