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徳久圭先生のコラム 『中国語通訳の現場から』 武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。出版社等に勤務後、社内通訳者等を経て、フリーランスの通訳者・翻訳者に。現在、アイ・エス・エス・インスティテュート講師、文化外国語専門学校講師。

第8回:脚踏雙船兩頭空──仮案件とリリースの問題

かつて、Twitterでこのような「つぶやき」をしたことがあります。

「とある通訳業務の『仮案件1』がリリースになったその日に、別の『仮案件2』が入っている日時とバッティングする形で『仮案件3』が入り、泣く泣く断りました。でも、この『仮案件2』だってリリースになるかもしれず、結果として仕事を全部失う可能性が……」

個々の通訳業務のことを「案件」と言います。そして上のつぶやきにある「仮案件」とは、エージェント(通訳者の派遣業者)から通訳者に対して「この日時の業務に対応できますか。できる場合は予定を空けておいてください」と要請されている案件のことです。この段階ではまだ仕事を獲得できたわけではありません。

なぜ仮案件なのかというと、海外からの参加者もいるクライアント(通訳者の依頼主)の会議日程が未決定だからという場合もありますし、クライアントによっては複数のエージェントに対して「相見積もり」を取るからという場合もあります。前者であればクライアントの参加者や日程が決定した場合、また後者であればクライアントから案件を落札できた場合、エージェントから通訳者に「確定しました」というお知らせが届き、めでたく仕事の獲得に至るわけです。

通訳者にとって、仕事に確実に結びつくという保証のない仮案件ですが、だからといって同じ日時の他の仕事を入れることはできません。ダブルブッキングになる可能性がありますから。そして、基本的には先に入った仮案件を優先するというのが業界のルールです。つまり、仮案件が入っている同じ日時に、後からより魅力的(仕事の内容なり、報酬面なりで)な案件のオファーがあったとしても、先に入っている仮案件を優先して断るのです。これはまあ、商道徳的にも当然のことでしょう。

では、後から入った案件が仮案件ではなく「確定案件」だった場合はどうでしょうか。この場合はエージェントに「先日の仮案件、その後の進捗はいかがですか。実は同じ日時に別の確定案件が入ったのですが……」と相談を持ちかけます。するとエージェントは「わかりました。ではクライアントに問い合わせて、近日中に確定とならない場合は、そちらの案件を優先なさってください」などと対応してくれることがあります。このあたりは持ちつ持たれつ、普段からエージェントと通訳者の信頼関係が築かれているからこそのネゴシエーションですね。

一方で、複数のエージェントが競って見積もりで「失注(受注に至らないこと)」した場合、その案件は「リリース」になります。釣りで言う「キャッチ・アンド・リリース」の「リリース」。つまり「解き放たれる」ことですね。エージェントから「空けておいていただいた日時からもう解放します」とお知らせが来たわけですから、別のエージェントから仕事が入ってもダブルブッキングを心配する必要はなくなります。

……とまあ、以上が仕事の受注に至るまでの流れなのですが、実際にはリリースになった日時にそうそううまく別の仕事が入ってくるわけではありません。多くの場合、上記のTwitterでつぶやいたように、結果として「虻蜂取らず」、つまりわざわざ他の仕事を断ってまで空けておいたのに、当のその仕事がリリースになっちゃった、ということがしばしば起こります。そしてその補償は──エージェントにも、またリリース日が「本番」までどれほど近いかなどにもよりますが──あるとは限らないのです。しくしく。

もちろん、個々の通訳者はそうした状況も承知のうえでフリーランスなり兼業なりの就業形態を取っているわけです。誰にも文句は言えません。とはいえ……これでは通訳者として食べていくのはなかなか大変ですよね。私はまだまだ駆け出しですから不安定なのは当たり前としても、聞けばこの道何十年の大先輩でさえ同様の「仮案件・アンド・リリース」には悩まれている由。みなさん通訳業の他に翻訳業や講師業、その他の業務を兼任しながら生活を維持されている。もちろん私もそうです。

私はそれでも曲がりなりにも何とか収入を維持していますが、この先どうなるかはわかりません。通訳者という仕事はとても面白くてやり甲斐のある、世のため人のためにもなる素敵な仕事だと私は信じていますけど、これでは新しく参入してくる方はどんどん減っていくのではないかなとも心配しています。そして「素敵な仕事です」と言いつつ通訳学校で講師をしていても、正直、時々何だか申し訳ない気持ちになることがあるのです。

クライアントが複数のエージェントに対して「相見積もり」を取るのは、少しでも安い料金で通訳者を雇用したいからでしょう。競争原理が働き、コスト削減が至上命題の市場にあっては当然のことです。ただ低コストではそれに見合った質のサービスしか得られない場合もあり、その結果生まれるかもしれないリスクもあります。そして、それが回り回って最終的にはコストの上昇を招くことも十分にあり得るのですが、なぜかこうしたリスクは多くのクライアントにおいては前景化しないようです。

いささか残念ではありますが、実際に現在の仕事のオファーは、そのほとんどが仮案件としてスタートします。最初から確定案件というオファーはかなり稀になったというのが私個人の実感です。とにもかくにもそれが現状だとすれば、できることはふたつ。ひとつは数多くのリリースにも負けないくらいたくさん仕事の種を播き続けること、もうひとつは質の悪いサービスに頼るリスクを知悉したクライアントに最初から確定案件として「ご指名」頂けるような高い技術を身につけること、ですね。はい、今後も精進いたします。

あ、以上は主に中国語通訳業界についてのお話です。他言語の状況についてはあまり詳しくありませんので、当てはまらないことがあるかもしれません。

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