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徳久圭先生のコラム 『中国語通訳の現場から』 武蔵野美術大学造形学部彫刻学科卒業。出版社等に勤務後、社内通訳者等を経て、フリーランスの通訳者・翻訳者に。現在、アイ・エス・エス・インスティテュート講師、文化外国語専門学校講師。

第9回:巧婦難為無米炊──ひとりだけ門外漢の苦衷

先日、とある学会のシンポジウムで通訳を仰せつかりました。クライアントは通訳者の仕事にとても理解があり、かなり「前広(まえびろ)」に資料を提供してくださるので、こちらもパワーポイント資料を読み込み、単語帳を作り、出席者のお名前や肩書き等を覚えるなど、予習に力を入れて当日に望むことができます。

連載の第三回でも書きましたが、通訳者の仕事は単に二つの言語が話せるだけでは務まりません。それでも、観光客のお買い物に付き添うくらいなら、たぶん普通に話せる程度で大きな問題はないでしょう。でも、専門的な会議や商談などであれば、半日、あるいは一日の仕事をするために、通訳者はその何日も前からコツコツと準備や予習をしています。その時間は報酬に含まれません。というより、その時間も含んだ報酬として比較的高い日当が設定されていると考えるべきなのです。

しかも、ひとりの通訳者が様々な「業界」の仕事を担当することが普通です。例えば先々週が冒頭に上げた学会のシンポジウムだったとして、先週はスポーツ関係のインタビュー、今週は台湾アイドルのファンミーティングで、来週は自動車工場の技術研修……などということもあり得ます。そのどの業界においても、私は全くの門外漢です。でも現場に参加している方々は、当然ながらいずれもその業界の専門家ばかりなのです。

業界の専門家ばかりが集まる会議で、専門家同士でさえまだ共通の知見が得られていない事柄について話す(だからわざわざ国際会議をやるのです)場面で、通訳者だけがひとり門外漢であるにもかかわらず、その門外漢が一番前に出て二つの言葉で瞬時に専門的な内容をやりとりする……という、この「無理筋感」をご想像いただけるでしょうか。

事前に資料が提供されず、全く予習ができずに現場に出ていきなり「標準液密度高めなら払い出しはバタ弁微開のミニフロ運転でお願いします」などと言われたら、私のような駆け出しはもちろん、どんなベテランの先生だってまず訳せないでしょう。これはとある技術会議での実際の発言です。もっともこの時はクライアントがとても通訳者に理解があって、資料を豊富に提供してくださり、前日にわざわざ時間を割いてブリーフィングまでしていただき、十分に予習をすることができました。

「大丈夫、普通のことしか話さないから」と、資料のご提供がないクライアントもいらっしゃいます。でも、その方やその業界の方にとっては普通のことでも、門外漢の通訳者にはたったひとつのジャーゴン(業界用語、仲間内の用語)が命取りになります。上述した「バタ弁微開のミニフロ運転」のように。ちなみにこれは「バタフライ弁(そういう種類の弁があるのです)をわずかに開けて、最低流量で液化天然ガスを流せ」というLNGプラントにおける作業指示です。

だからこそ、事前の予習が絶対に欠かせません。付け焼き刃であることは百も承知で、仕事の前には必死で知識を詰め込み、いかにも専門家のような顔をして現場に乗り込むのです。今ここで転んでしまったら、頭から単語がこぼれ落ちるかも……といったような状態で。敬愛するロシア語通訳者の故・米原万里氏も「(仕事の)当日は、泳ぎがまだろくに出来ないのに足のとどかない深みに飛び込むような、諦めと自棄っぱちと向こう見ずが団子になったような気分」と書かれています。その感じ、よく分かります。

冒頭で書いたシンポジウムは十分に予習ができましたが、それでも油断は禁物です。当日になって、三本ある発表のうち一本はパワーポイントが完全に別物になっていることが判明しました。もう一本も変更箇所多数で休憩時間も返上して急いで目を通すことに。さらには開会式での祝辞も、事前の確認では「原稿はありません。自由に話します」とのことだったのが、当日朝になってみるとクライアントの手には美辞と麗句がびっしりとちりばめられたスクリプトがあるではありませんか。それをよこせ。い・ま・す・ぐ・に・だ。

……失礼いたしました。でも、その原稿や変更されたパワーポイント資料を前もって、前日の夜でもいいので通訳者にも提供していただけたら。そうすれば単語を調べることもできるし、よりよい訳出の方法を考えることもできます。「アンチョコ」を見て楽をしたいのではありません。クライアントにとってもよりよい結果をもたらすために、背景知識をでき得る限り共有させていただきたいのです。語学に取り組んだことがある方なら同意してくださると思いますが、リスニングやスピーキングには背景知識の多寡が大きな影響を及ぼしているものなのです。

とはいえ通訳者も一介のサービス業、クライアントが用意してくださる範囲で最善を尽くすしかありません。通訳という作業の内実に理解が及ばないのはある意味仕方のないことであって、となれば程度の差はあれ、現場での訳出は常に付け焼き刃で立ち向かわざるを得ないのかもしれません。精神衛生上は非常によろしくないのですが。事前にあまり情報が知らされない仕事ほど、心配で夜も寝られなくなります。

仕事場でご一緒することがある英語の通訳者さんにはとても気丈な方がいて、現場に着くなりクライアントを呼び出し、「資料のこことこことここ、どういうことなのか説明してください。あ、お偉いさんじゃなくて、現場でこの技術を担当している人、連れてきて!」などと命じちゃったりしています。私は「うわあ」と圧倒されつつも、いつもその通訳者さんの、仕事にかける執念に心から敬意を表しています。

もっと楽しんで仕事ができるようになれたらいいですね。十分に予習ができた仕事は、現場に向かう朝がとても楽しいです。それとも通訳者の仕事に対する理解を求めつつ、もっともっと訓練を積んで技術を高めて、なおかつ森羅万象どんな話題を突然ふられても自信を持って訳せるような博覧強記の人になればいいのかな。

※通訳者が行う仕事の準備や、現場での様々な事情についてはこちらの記事がとても参考になります。ご参考までにリンクを張っておきます。

ローコンテクスト社会で<通訳する>ということ
http://synodos.jp/international/18619

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