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辻 直美先生のコラム 『通訳サバイバル日記』 ロータリー財団奨学生として、ペンシルバニア州立大学大学院にてスピーチコミュニケーションの修士号取得。帰国後、外資系金融機関等の社内通訳を務めながら、アイ・エス・エス・インスティテュート東京校に学び、フリーの通訳に。通訳実績は多岐にわたり、経済、金融、不動産、航空、特許分野以外にも内閣官房長官プレスコンファレンス等を担当。2006年よりアイ・エス・エス・インスティテュート東京校、横浜校にて基礎科のクラスを数年間担当し、現在は東京校にてプロ通訳養成科3と同時通訳科の特別授業を担当。

第5回:たかが黒子、されど通訳

フリーの通訳になって間もない時の事でした。ある外資系企業の営業社員向けコンベンションでのアメリカ人社長スピーチの通訳をする機会を頂き二日間にわたり同じスピーチを二つの会場でお話しするはずでした。千人規模の日本人営業社員向けですから、当然士気を上げる事が一番の目的であるモチベーショナル・スピーチでなければなりません。部下の方が作成された原稿を事前に頂き、私はやや違和感を覚えながらもそのまま読み上げられた原稿を壇上で逐次通訳しました。無事に終えて会場を立ち去ろうとする時に、同じ部下の方が駆け寄ってきて「辻さん、もう少し気持ちを込めて通訳してもらえませんか?」とややクレームに近い言い方をされたのです。私は、ある意味少し驚きしばらく絶句しました。そして、少し間をおいてから長年一緒にお仕事をさせていただいた社長さんのところへ行き、少しお時間を頂きたい旨をお伝えしました。

一回目に読み上げられた原稿には、社長さんの心からの言葉は全く含まれていない事を最初に原稿を読んだ瞬間に直観的に感じていました。いわゆる無難でそつのないスピーチ原稿を読み上げられて、聞いた人の心をゆさぶり、やる気をみなぎらせる事は不可能です。私は、その時通訳としての立場をわきまえず、通常の業務上の役割を大きく一線超えた行動に出てしまったのです。失礼を承知の上で、私は社長ご自身の言葉で、自らのご体験と感情を壇上で表現することができなければ、本当の意味で聞き手に語りかけ、思いの伝わるスピーチにはならないと思うとお伝えしました。とても謙虚な人格者だったその方は、真摯に受け止めて下さり、翌日のスピーチでは原稿を読むこともなく見違えるような素晴らしいスピーチをして頂きました。ご自身のご家族の心温まるエピソードなども交えた心のこもったプレゼンで、もちろん私も全力で全てが伝わるように通訳したつもりです。

結果、スピーチは大成功に終わり、終了後に数名の方がかけよって絶賛されていました。前日とは正反対の反応に私も驚きましたが、全く同じスピーカーと通訳が同じように設定された環境の中で、ここまで違うスピーチになるものかと驚くほどの変わりようでしたので、周りの方々もさぞ驚愕されたでしょう。この体験を通じて学んだことがいくつかあります。
まず経営トップの方があらかじめ準備されたスピーチ原稿を淡々と読み上げられる事はよくある事ですが、その方自身の言葉になっていなければ、特に通訳を介して本来のメッセージが伝わるはずはないという事です。逆にどんなに感動的なスピーチをされていたとしても、もしも通訳がそれを淡々と事務的に訳していたのでは、せっかくの名スピーチも台無しになるでしょう。ただ、主たる話し手の魂がこもっていないスピーチに通訳が魂を吹き込むことは到底できないと私は思うのです。

後にも先にもこの時のようにオリジナルのスピーチ内容に踏み込んだ発言をした事は、以来一度もありませんし、基本的には通訳はスピーカーのお話しされる内容に口を出すべきではないと考えています。当時の判断が正しかったかどうか未だに疑問ではありますが、時に通訳も通常業務を超えた状況判断を迫られる時もあるのだと痛感しました。

我々の通常業務の多くは事実を淡々と伝える事を求められる事が多く、正確性がまず第一に問われます。ただ話し手の感情の起伏や、機微を伝える必要がある局面も稀にありますので、そこは通訳もいつもと違う種類の感性や人間としての器、それまでの人生経験が問われることになるわけです。通訳の理想形として求められるのは、そこに通訳がいる事を感じさせない、ある意味スピーカーと同化した空気を作り出す能力なのかもしれません。特に聴衆の心に訴えかけるような感情的なスピーチの場合、話し手と通訳の気持ちがぴったりと重なった時に初めて最高のパフォーマンスにつながると思います。普段は黒子に徹する仕事ですが、どんなに偉大な話し手でも、そのスピーチの素晴らしさを生かすも殺すも通訳次第、あなどれない職業です。

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