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『LEARN & PERFORM!』 翻訳道(みち)へようこそ 村瀬隆宗

第3回

Trade-off:満点の訳文は存在しない

ドラえもんの秘密道具を、ひとつだけもらえるとしたら?

  

翻訳者の間では、やはり一番人気は「ほんやくコンニャク」ではないでしょうか。食べると自動で翻訳できてしまうというアレです。しかし、私は選びません。それって結局は機械翻訳の進化形ではないか、と疑うからです。

 

私がいただくなら「暗記パン」。覚えたいものをそこに転記して食べると、全部頭に入れることができるという優れものです。

  

前回、翻訳は単なる言葉の置き換えではなく、原文に込められた観念や情景を別の言語で表現するプロセスであり、言語の壁を超えてイメージを伝える作業だという話をしました。しかし、やってみると簡単ではありません。原文を読みながら訳すと、どうしてもその文字に引きずられてしまい、結局言葉の置き換えになってしまった、という経験はないでしょうか。

  

そうならないようにするには、理解して内容を覚えたら原文を破り捨て、脳内にイメージだけを残すといいでしょう。あとはそのイメージを、読み手に伝わるように自分の言葉で表現するだけです。といっても、長文を細部まで正確に頭に入れるのは、簡単ではありません。それに役立つのが暗記パンというわけです。

  

ところが、この「原文の形にとらわれず、イメージだけ残した上で、それを自分の言葉で表現する」という理想の翻訳は、実務では受け入れられません。ひとつには、正しさを確認できないからです。原文の形をまったく無視した翻訳というのは、その発注者や翻訳会社にとって、原文と比較して正しさをチェックすることが極めて難しいため、敬遠されるでしょう。

  

また、共同作業にも適しません。多くの大規模プロジェクトでは翻訳支援ツールを用い、複数の翻訳者の間で訳文を使い回すことによって作業の効率化が図られます。使い回すためには、原文と訳文がセットになっている必要があり、原文の形を無視したフリースタイル翻訳では困るのです。

  

ということは、翻訳の実務(特に実務翻訳の実務)では一定の「形式的な忠実さ」も求められるということになります。これと、「形にとらわれずにイメージを伝えるべき」という理想の間で、どのように折り合いをつけるべきでしょうか。

  

訳文に求められる要素を考えてみると、次の5つが挙げられます。

  

・正確さ ・分かりやすさ ・自然さ ・簡潔さ ・(形式上の)忠実さ

  

究極の翻訳というものが、この5要素すべてを満点にした翻訳だとすれば、そんなものは存在しません。この5要素の間では、必ず「あちらを立てればこちらが立たず」の関係、つまりtrade-offが発生するからです。

  

たとえば Eric teaches first grade and kindergarten. という文を「エリック先生は1年生と幼稚園児を教えている」と訳すのは、分かりやすくて自然ではありますが、正確ではありません。アメリカで義務教育の一貫であり、小学校に併設されているkindergartenを「幼稚園」としたことで、日本の教育制度に照らして読む人は「小学校と幼稚園を掛け持ちしてるの?」と不思議に思うことでしょう。

  

かといって「エリック先生は1年とキンダーガーテンを担当している」では分かりやすさが損なわれ、「キンダーガーテンって何?」となる人も多いでしょう。そこで補足情報を入れることもできますが、簡潔さは損なわれます。こんな簡単な1文でさえ、5要素のすべてを完全に満たして翻訳することはできないのです。

  

ですから、まず「満点は不可能」だと知っておくことが重要です。その上で、5要素のうちのどれ、あるいはどれとどれに、軸足を置くかを決めることになります。その判断材料は、内容そして対象読者です。

  

たとえば技術系の翻訳なら、「正確さ」と「(形式上の)忠実さ」に軸足を置くことが多いはずです。一方、ニュース翻訳であれば、読みやすさ、つまり「分かりやすさ」と「自然さ」が重視されるでしょう。いわゆる「直訳」、「意訳」というのは、この5要素で考えると、前者が直訳調、後者が意訳調、ということになります。プレゼン資料なら「簡潔さ」の比重を高めるはずです。

  

ただし、「重視する」というのは、「それだけを意識して他は無視する」ということではありません。trade-offの関係にある以上、そこを最大化しようとすれば他は犠牲になりますが、その制約内で全指標を最大限に高めようとする工夫と努力が求められます。

  

そんなわけで、「翻訳の三原則」その2を
Translators face trade-offs.
としたのでした。

  

実はこれは、経済学から拝借したものです。ハーバード大学のグレゴリー・マンキュー教授が提唱した「経済学の10大原則」のその1に、こうあります。 People face trade-offs.(人はトレードオフに直面する)

  

これは経済学の根本的な前提である希少性(scarcity)にかかわる原則で、「人は限りある資源から最大限の効用を得られるように意思決定を行う」ということを説明しています。翻訳者の場合は、「原著者のイメージを読み手にそのまま伝えられるように意思決定を行う」ということになるでしょうか。

  

村瀬隆宗 慶応義塾大学商学部卒業。フリーランス翻訳者、アイ・エス・エス・インスティテュート 英語翻訳コース講師。 経済・金融とスポーツを中心に活躍中。金融・経済では、各業界の証券銘柄レポート、投資情報サイト、金融雑誌やマーケティング資料、 IRなどの翻訳に長年携わっている。スポーツは特にサッカーが得意分野。さらに、映画・ドラマ、ドキュメンタリーなどの映像コンテンツ、 出版へと翻訳分野の垣根を超えてマルチに対応力を発揮。また、通訳ガイドも守備範囲。家族4人と1匹のワンちゃんを支える大黒柱としてのプロ翻訳者生活は既に20年以上。

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