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プロの視点 ー 通訳者・翻訳者コラム


『LEARN & PERFORM!』 翻訳道(みち)へようこそ 村瀬隆宗

第6回

Anecdote:「逸話」ではニュアンスを出せません

翻訳は単なる言葉の置き換え作業ではありません。「訳語を自らつくる」くらいの気持ちで、単語レベルにとどまらず考えましょう。

  

担当している翻訳講座では、折に触れこう伝えています。この「置き換え作業ではない」ことを思い出させてくれる言葉の代表例が、今回紹介するanecdoteです。

 

よく目にする単語で、英和辞典には逸話、秘話、奇談といった語義が並んでいますが、私はanecdoteの訳としてそういう言葉を使ったことが、あまりありません。特に新聞等で目にする際には「逸話」という言葉では表せないニュアンスが含まれているように感じます。

  

そのニュアンスを出すことが翻訳では大事になってくるものの、ニュアンスであるだけに、なかなか判然とせず、言語化しづらいものです。そんなとき、もちろんanecdoteという言葉について徹底的にリサーチするのもひとつの手ですが、やはり何よりも大事なのは、その言葉が使われている文に自ら何度も遭遇することです。

  

電子辞書の例文では物足りなくても、英語コーパスなどを使えば手っ取り早く遭遇することができます。ですが、しょせんは文レベル。望ましいのは、自ら本や記事を読んでいるなかで繰り返し出くわすこと。そうすれば、文脈を把握した上でanecdoteがどう使われているかを確認できるわけですから、よりニュアンスをつかみやすいですよね。

  

すると、たとえば副詞形のanecdotallyがこんなふうに使われている例に出遭ったりします。

But anecdotally and in surveys, many people say they spend too much time on social media.(The New York Timesより)

明らかに、anecdotallyとin surveysは対比で使われています。ということは、anecdoteはsurveyの対極にあるもの、「ちゃんとした調査によるものではない」、「統計的に有意ではない」事例ではないか、ということが見えてきます。ですから、どの辞書にも載っていませんが、「あてにならない個別事例」のように訳すこともできるかもしれません。あくまでも大事なのはニュアンスを訳文に織り込むことであり、このまま名詞として訳す必要はないわけですが。

  

このように、何かとの対比で使われているケースは、言葉のニュアンスをはっきりつかむための絶好のチャンスといえるでしょう。

  

英英辞典で確認してみると、たとえばOxford Dictionary of Englishに

An account regarded as unreliable or hearsay

という説明があります。このunreliableというのがひとつのポイントであり、この意味で使われている場合は、ここをうまく訳出したいところです。

  

この意味のanecdoteをよく見かけたのが、コロナワクチンをめぐる報道です。まだ誰も受けたことのない未知のワクチン。こんな副反応が出た、なんてニュースが出ると、ますます不安になりますよね。インパクトもあり、なかにはそういう事例を自分の主張の裏付けに利用しようとする人も出てくるものです。

  

ですが、ニュースというのは受け手に衝撃を与える事例をcherry-pick(恣意的に選択)しがちです。あくまでもanecdoteであり、統計的な有意性はない、つまり信頼に足るデータとは必ずしもいえないものとして受け止める姿勢が、大切ではないでしょうか。

  

たとえばコロナワクチンなら、自分だけでなく周囲のためにも打つのか、それとも打たないのか。その判断は最終的には個人に委ねられるわけですが、その上では、耳にした副反応などに関する情報がanecdoteなのかsurveyに基づくデータなのか、それを見極めようとする姿勢を忘れるべきではないでしょう。

  

ただし、この用法のanecdoteがいつも「信頼できない」というネガティブな意味合いで使われるわけではありません。anecdoteはpersonal experienceとしての具体性を持っているわけですから、たとえ全体的現象の代表としての信ぴょう性が不十分だとしても、有用な情報として扱うことはできるわけで、そういうものとしてanecdoteを使っている文脈も多々あります。

  

ニュアンスというと「ポジティブかネガティブか」の二択だけに目がいきがちですが、そもそもニュアンスというのは繊細なものですから、そんな単純化では済まされないはずです。anecdoteについても「統計的信頼性のない個別事例」という一義を抑えつつ、それがどのように使われているかは、文脈の中で判断する必要があります。正しく判断するには、やはり大量の文章を読み、さまざまな用例に遭遇しておくことが大事だというわけです。

村瀬隆宗 慶応義塾大学商学部卒業。フリーランス翻訳者、アイ・エス・エス・インスティテュート 英語翻訳コース講師。 経済・金融とスポーツを中心に活躍中。金融・経済では、各業界の証券銘柄レポート、投資情報サイト、金融雑誌やマーケティング資料、 IRなどの翻訳に長年携わっている。スポーツは特にサッカーが得意分野。さらに、映画・ドラマ、ドキュメンタリーなどの映像コンテンツ、 出版へと翻訳分野の垣根を超えてマルチに対応力を発揮。また、通訳ガイドも守備範囲。家族4人と1匹のワンちゃんを支える大黒柱としてのプロ翻訳者生活は既に20年以上。

村瀬隆宗のプロの視点のアーカイブ

第28回:Hallucination:生成AIとの付き合い方

第27回:opportunity:ただの「機会」ではない

第26回:Insight:洞察?インサイト?訳し方を考える

第25回:Share:provideやgiveより使われがちな理由

第24回:Vocabulary:翻訳者は通訳者ほど語彙力を求められない?

第23回:Relive:「追体験」ってなに?

第22回:Invoice:なぜ「インボイス制度」というのか

第21回:Excuseflation:値上げの理由は単なる口実か

第20回:ChatGPTその2:翻訳者の生成AI活用法(翻訳以外)

第19回:ChatGPTその1:AIに「真の翻訳」ができない理由

第18回:Serendipity:英語を書き続けるために偶然の出会いを

第17回:SatisfactionとGratification:翻訳業の「タイパ」を考える

第16回:No one knows me:翻訳と通訳ガイド、二刀流の苦悩

第15回:Middle out:トップダウンでもボトムアップでもなく

第14回:Resolution:まだまだ夢見る50代のライティング上達への道

第13回:Bird’s eye view:翻訳者はピクシーを目指すべき

第12回:2つのquit:働き方改革と責任追及

第11回:Freelance と “Freeter”:違いを改めて考えてみる

第10回:BetrayとBelie:エリザベス女王の裏切り?

第9回:Super solo culture:おひとりさま文化と翻訳者のme time

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第8回:Commitment:行動の約束

第7回:Mis/Dis/Mal-information:情報を知識にするために

第6回:Anecdote:「逸話」ではニュアンスを出せません

第5回:Meta:メタ選手権で優勝しちゃいました

第4回:For〜木を見るために森を見よう〜

第3回:Trade-off〜満点の訳文は存在しない〜

第2回:Translate〜翻訳者は翻訳するべからず?〜

第1回:Principle〜翻訳の三原則とは〜

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