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プロの視点 ー 通訳者・翻訳者コラム


『LEARN & PERFORM!』 翻訳道(みち)へようこそ 村瀬隆宗

第12回

2つのquit:働き方改革と責任追及

かつては仕事中毒といえば日本人というイメージがありました。今はどうでしょう?一定の改革があったとはいえ、働き手の状況がそれほど大きく変わったようには思えません。ただ、近年は長時間労働が世界的なスタンダードになり、仕事中毒は日本人の専売特許ではなくなったようです。

  

特にアメリカはworkaholicの国となり、日本から輸入したkaroshiという言葉も紙面でよく見かけるようになりました。コロナ前にはhustle culture(頑張り文化)という言葉が流行。一日中働き、仕事のことばかり考えるスタイルは、批判されるのと同時にもてはやされもしました。

  

その流れが、コロナ禍を契機に変わりました。Great Resignation(大辞職時代)、略称Big Quitの到来です。自粛期間が、働き方や生き方、家族との団らんタイムの尊さや人生の目的について、改めて考える機会となりました。のちに経済が再開し始めると、人手不足で労働市場が売り手(働き手)優位になったことも相まって、サービス業を中心に大勢の人が辞表を叩きつけたのです。

  

hustle cultureへの反発も起き、TikTokから「5 to 9」がトレンドになると一部から批判の声が上がりました。これは、5時に終業して9時に就寝するまでの禁欲的ルーチンを、特に女性が動画で紹介するというものですが、ジムで汗を流したり健康食を手作りしたりという「キラキラアピールが頑張り文化を助長している」などの手厳しい意見も出ています。

  

リモートワークは、脱・仕事中毒を妨害する一方、役立ってもいます。フリーランスなら昔から経験していることですが、仕事と生活の境界があいまいになるために、ついつい働きすぎてしまうという側面は否定できません。しかし、通勤にどれだけ体力を奪われていたのか、仕事中もペットと一緒に過ごせることがどれほど幸せなことか、気づかせてくれた面もあったはずです。

  

さらに、Quiet Quittingという潮流も生まれました。 このquitは上のBig Quitとは違って仕事を「辞める」ではなく「止める」。つまり、「静かなる定時退社」ということです。日本でも昔からノー残業が推奨されていますが、それを阻む一番の要因はpeer pressure、すなわち「自分だけ先に帰るのは気まずい」という空気ではないでしょうか。リモートワークなら5時に上がるのは簡単。パソコンを静かに閉じるだけです。

  

残念ながら?日本ではBig QuitもQuiet Quittingも起きていないようです。それは、ひとつには労働市場の流動性がまだまだ不十分だから、簡単に言えば、会社を辞めるのも転職するのも新しい仕事を見つけるのも、まだそれほど簡単ではないからでしょうか。

  

元会社員の私自身にとっても退社は一大決心、まるで(やったことはないけど)バンジージャンプでした。恐怖と不安に震えおののく自分の背中を押してくれたものを振り返ると…

  
  • ・YOLO(You Only Live Once)マインド:どうせ生涯時間の大部分を仕事に費やすなら、嫌なことより好きなことをしたい。
  • ・スキル:翻訳はまったく未経験ながら英語と文章を書くことには自信があった。
  • ・根拠のない自信:まあどうにかなるんじゃない?(すでに家庭を持っていましたが)
  • ・サッカーワールドカップ:現在はカタール大会を開催中ですが、当時は日韓大会の前年。昼の試合も多く、リモートワークなんて無い時代、満喫するにはもう…
  

さて、このquitという言葉は大西洋の反対側でも最近話題になりました。ただし、また少し違う意味で使われています。

  

3人目となる女性の政界トップが誕生した英国でしたが、リズ・トラス首相は史上最短で辞任してしまいました。敬慕するサッチャー首相、そしてレーガン大統領にならって大規模減税を打ち出したものの、財政悪化を懸念されてポンド安、そして物価のさらなる上昇を招き、朝令暮改で減税を一部撤回するなど迷走。焦りすぎてしまったのかもしれません。

  

「鉄の女」の継承者として、辞任表明の前日には強気の姿勢でこう発言していました。

  

I am a fighter and not a quitter.

  

こちらのquitは上の「辞める」「止める」というより、「投げ出す」「あきらめる」といったところでしょうか。名詞のまま訳そうとするとなかなか難しいですね。ここでは、「簡単に仕事を投げ出す人間」なんてどうでしょう?

  

これを意識して、辞任を要求するファンに返事したサッカークラブの指揮官が、アストン・ビラのスティーブン・ジェラード監督です。

 

I'm a fighter, I'll never, ever quit anything.

   

結局、その数時間後に解任されてしまいました。ジェラードといえばリバプールFCのレジェンド、超一流の名選手でしたが、A good player doesn’t make a good coach.なのか。トラス元首相ともどもnever-quit精神での復活に期待したいところです。

村瀬隆宗 慶応義塾大学商学部卒業。フリーランス翻訳者、アイ・エス・エス・インスティテュート 英語翻訳コース講師。 経済・金融とスポーツを中心に活躍中。金融・経済では、各業界の証券銘柄レポート、投資情報サイト、金融雑誌やマーケティング資料、 IRなどの翻訳に長年携わっている。スポーツは特にサッカーが得意分野。さらに、映画・ドラマ、ドキュメンタリーなどの映像コンテンツ、 出版へと翻訳分野の垣根を超えてマルチに対応力を発揮。また、通訳ガイドも守備範囲。家族4人と1匹のワンちゃんを支える大黒柱としてのプロ翻訳者生活は既に20年以上。

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第28回:Hallucination:生成AIとの付き合い方

第27回:opportunity:ただの「機会」ではない

第26回:Insight:洞察?インサイト?訳し方を考える

第25回:Share:provideやgiveより使われがちな理由

第24回:Vocabulary:翻訳者は通訳者ほど語彙力を求められない?

第23回:Relive:「追体験」ってなに?

第22回:Invoice:なぜ「インボイス制度」というのか

第21回:Excuseflation:値上げの理由は単なる口実か

第20回:ChatGPTその2:翻訳者の生成AI活用法(翻訳以外)

第19回:ChatGPTその1:AIに「真の翻訳」ができない理由

第18回:Serendipity:英語を書き続けるために偶然の出会いを

第17回:SatisfactionとGratification:翻訳業の「タイパ」を考える

第16回:No one knows me:翻訳と通訳ガイド、二刀流の苦悩

第15回:Middle out:トップダウンでもボトムアップでもなく

第14回:Resolution:まだまだ夢見る50代のライティング上達への道

第13回:Bird’s eye view:翻訳者はピクシーを目指すべき

第12回:2つのquit:働き方改革と責任追及

第11回:Freelance と “Freeter”:違いを改めて考えてみる

第10回:BetrayとBelie:エリザベス女王の裏切り?

第9回:Super solo culture:おひとりさま文化と翻訳者のme time

第8回:Commitment:行動の約束

第7回:Mis/Dis/Mal-information:情報を知識にするために

第6回:Anecdote:「逸話」ではニュアンスを出せません

第5回:Meta:メタ選手権で優勝しちゃいました

第4回:For〜木を見るために森を見よう〜

第3回:Trade-off〜満点の訳文は存在しない〜

第2回:Translate〜翻訳者は翻訳するべからず?〜

第1回:Principle〜翻訳の三原則とは〜

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