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プロの視点 ー 通訳者・翻訳者コラム
『LEARN & PERFORM!』 翻訳道(みち)へようこそ 村瀬隆宗
第31回
Special moment:「特別な瞬間」よりも自然に訳すコツ
英語に染まった大谷選手
サッカー翻訳を仕事の柱にしてきましたが、今年は野球熱が再燃。サッカーよりも野球の試合を見がちです。
ただ、楽しい試合ばかりではありません。昨今はピッチングの進化が著しいのか、投手有利のボールに変わったのか、バッターがなかなか打ってくれず、イライラが募ります。
そんなときは自分で打ってみたくなり、バッティングセンターに出掛けます。そして改めて気づくのです。バッティングって難しいよね、と。
結果を出せなかった選手に対する非難がSNSのせいで過激化していますが、何事も自分でやってみるといいかもしれませんね。これよりもはるかに高等なことを、とてつもないプレッシャーの中でしようとしているのかと、忘れていたリスペクトがよみがえるはずです。
毎回打てなくてもしょうがないよね、と寛容になれるとともに、期待に応え続ける選手には尊敬を超えて畏敬の念を抱きます。もちろん大谷選手もその一人。ロサンゼルス市は5月17日をShohei Ohtani Dayに制定したと報道されていましたが、現地でもrespectfulどころかawe-inspiringなのでしょう。
その式典で、大谷選手はこう語ったそうです。「今日この日を迎えられたことを、私自身すごく嬉しいですし、すごく特別な瞬間です」。ネット記事でこれを読んだ私は、こう思いました。なるほど、大谷選手は英語でスピーチしたんだなと。それを翻訳したのかなと。
英語でスピーチしたと推測した根拠は「特別な瞬間」という言い回しです。「今日は(あるいは今は)特別な瞬間です」なんて言い方を、日本でするでしょうか?私は聞いたことがありません。一方、This is a special moment for me. というのは極めて自然で、こういう場面でよく使われる表現です。ですから、それを機械的に訳したのではないかと。
ただ、翻訳というプロセスを通ったにしては文が全体としてヘンだという点が引っ掛かり、動画を探して見てみると、推測は外れていました。「すごく特別な瞬間です」と日本語で話していたのです。
「じゃあ、まだまだ英語に慣れていないのかな」と思われるかもしれませんが、私の印象はむしろ逆です。日本だと、こんなとき普通どう言うでしょう?「本当に最高の気分です」のような言い方をしないでしょうか。
大谷選手の場合、スピーチ全部を自分で英語にするほどの自信はまだなくても、少なくともこの部分についてはspecial momentを真っ先に想起し、それを日本語にした、と考えられないでしょうか。
当初、通訳者が用意した英語原稿をもとにスピーチしたのかなと思っていたわけですが、「特別な瞬間」という言葉は、その想定以上に英語が染みついている証拠だといえるわけです。
自然に訳すコツ
ところで、special momentをこの文脈の中で自然な日本語に訳すには、どうすればいいでしょうか?
まずは、逐語訳に対して①自分で違和感に気づくことです。誰にでもできそうで、必ずしも簡単ではありません。「特別な瞬間」というフレーズ自体は不自然ではありませんが、文脈の中での違和感に気づけるかどうかです。
そのためには自分で書いた文を客観視する必要があるわけで、そこに難しさがあります。一番簡単な方法として、時間を置いてから訳文を見直すといいでしょう。
そして、②枠にとらわれないことです。「枠」には、名詞なら名詞、形容詞なら形容詞として訳さなければならない、のような品詞の枠もありますが、それだけではありません。たとえば、momentは時間関係だからそれに沿って訳さなければならない、というアプローチも枠にとらわれています。
「特別な時」、「特別な一瞬」のように、その枠内でいくら考えてみても、不自然の領域からはなかなか出られません。そこで、③普通どう言うか?を想像します。すると、This is a special moment for me. はすでに触れたように「本当に最高の気分です」と訳すことができるわけです。
挑戦してみよう
ひとつチャレンジしてみましょう。スランプに苦しんでいた選手がヒットを打って活躍した試合のあと、感想を求められた監督がよくI’m very happy for him.とコメントします。これを自然に訳してみてください。
評判の高い機械翻訳にかけてみると「彼のためにとてもうれしく思う」という訳が生成されました。「そんな言い方する?」と違和感を覚えれば、①はクリアです。
さて、どうしましょう?②でいうところのhappy for him「彼のために、彼にとって~だ」の形にとらわれず、③へ進みたいところですね。
「そんな言い方する?」で終わらず、「普通は…って言うよね」まで考えてみてください。野球を見ていなくても、ほかのスポーツでも、あるいは営業ノルマを数カ月ぶりに達成した社員の上司がうわさ話をしているところを想像してもらってもかまいません。こんなふうに言わないでしょうか。
「本当によかった(です)よね」
自然な翻訳に欠かせないのは、「その文脈ないしは状況では、普通どう言うか」を想像する力なのです。
村瀬隆宗 慶応義塾大学商学部卒業。フリーランス翻訳者、アイ・エス・エス・インスティテュート 英語翻訳コース講師。 経済・金融とスポーツを中心に活躍中。金融・経済では、各業界の証券銘柄レポート、投資情報サイト、金融雑誌やマーケティング資料、 IRなどの翻訳に長年携わっている。スポーツは特にサッカーが得意分野。さらに、映画・ドラマ、ドキュメンタリーなどの映像コンテンツ、 出版へと翻訳分野の垣根を超えてマルチに対応力を発揮。また、通訳ガイドも守備範囲。家族4人と1匹のワンちゃんを支える大黒柱としてのプロ翻訳者生活は既に20年以上。
第36回:Bards of a Feather:最近の洋楽ヒット曲に学ぶ英語表現
第34回:EqualityとEquity:そしてFairness、Justice
第33回:Resolution:その翻訳、「解像度」は足りていますか?
第31回:Special moment:「特別な瞬間」よりも自然に訳すコツ
第30回:Another Version of Me:違う「世界線」の自分
第29回:Inflection Point:いつか翻訳が通訳に繋がると信じて
第28回:Hallucination:生成AIとの付き合い方
第25回:Share:provideやgiveより使われがちな理由
第24回:Vocabulary:翻訳者は通訳者ほど語彙力を求められない?
第21回:Excuseflation:値上げの理由は単なる口実か
第20回:ChatGPTその2:翻訳者の生成AI活用法(翻訳以外)
第19回:ChatGPTその1:AIに「真の翻訳」ができない理由
第18回:Serendipity:英語を書き続けるために偶然の出会いを
第17回:SatisfactionとGratification:翻訳業の「タイパ」を考える
第16回:No one knows me:翻訳と通訳ガイド、二刀流の苦悩
第15回:Middle out:トップダウンでもボトムアップでもなく
第14回:Resolution:まだまだ夢見る50代のライティング上達への道
第13回:Bird’s eye view:翻訳者はピクシーを目指すべき
第11回:Freelance と “Freeter”:違いを改めて考えてみる
第10回:BetrayとBelie:エリザベス女王の裏切り?
第9回:Super solo culture:おひとりさま文化と翻訳者のme time
第7回:Mis/Dis/Mal-information:情報を知識にするために
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