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プロの視点 ー 通訳者・翻訳者コラム


『LEARN & PERFORM!』 翻訳道(みち)へようこそ 村瀬隆宗

第40回

Spectrum:映像化しやすくも訳しにくい比喩的用法

メタファーを訳す

翻訳講座の講師として、そして通訳ガイドとしての、共通の難題。それは、分かりにくい概念などを分かりやすく説明することです。そんなとき、適切な比喩は大きな助けになります。

「そもそも翻訳とは何か?」について説明する場合に「イメージとハートのリレー」と表現してみたり。仏の位について、会社になぞらえて「如来は社長、菩薩は部長みたいなもの」とたとえてみたり。

やはり、抽象的な概念も具体的な事物として想像できると、理解しやすいものですよね。ただ、それを訳すのは必ずしもたやすいことではありません。

英語と日本語で共通するメタファー(隠喩)があれば、苦労はしません。a dark cloudは暗雲、waves of emotionは感情の波。そのまま訳しても違和感は出ません。

比喩するものが違うだけなら、たとえを変えるだけで済みそうです。
She is climbing the corporate ladder quickly.
(彼女は会社[出世]のはしごを急速に駆け上がっているところだ。)

ladderはこの文脈でよく使われる映像化しやすい表現ですが、「会社のはしご」は聞き慣れません。日本流に言うなら「出世街道ばく進中」といったところでしょうか。日本語では道にたとえるのが一般的ということです。英語でもcareer pathのように道のメタファーも使うわけですが。

やっかいなのは、対応するメタファーがない場合です。ビジネスなどで、道のりや過程をjourney(旅)で表しがちです。たとえば学習プロセスをlearning journeyと言ったりしますが、これを「学習の旅」「学びの冒険」と訳すと詩的な感じがして、ビジネス用語としてはしっくり来ません。

customer journeyは顧客が商品やサービスを検討・購入・利用し、理想的には再び戻って来るまでのプロセスです。「顧客体験」とも単なる「顧客動線」とも違い、日本語で端的に表すことはできません。「カスタマージャーニー」のまま用語として定着しているのは、下手に訳すよりもjourneyそのままのほうがイメージしやすいからでしょう。

tapestryはどうでしょうか。
History is a tapestry of human joy and suffering.
(歴史は人類の喜びと苦しみのタペストリーである。)

「タペストリー」は室内装飾用の大型絵織物ですが、何となくではなく具体的に想像できる人は少ないかもしれません。雰囲気でごまかすという手もあるものの、できれば読む人にはっきりとイメージしてもらいたいものです。

「一大絵巻」ではどうでしょう?日本的でいいかもしれません。ただ、タペストリーのような織物ではないので、複雑に入り組んでいる感が出ません。ならば、「織り成す」という言葉を入れてはどうでしょうか。

「歴史は人類の喜びと苦しみが織り成す一大絵巻である。」
「絵巻」ではイメージが変わるので、忠実さを重視するなら
「歴史は人類の喜びと苦しみで紡いだ壮大な絵織物である。」
と訳すこともできるでしょう。ただし「絵織物」という言葉はスムーズにイメージしにくいかもしれません。

忠実さか、自然さか。文章の目的や対象読者に応じてどちらを重視するかで、訳は変わります。そして比喩を訳す場合も、結局のところ①まずは原文のイメージを再現する②それを自分の言葉で表現して伝えるという、「真の翻訳」のプロセスに従うことになります。

よく使われるspectrum

政治などのトピックでよく見かけるメタファーのひとつがspectrumです。スペクトルとは、一般的には光の色を波長の順に並べた連続的分布の帯ですが、これで政治的な立場などを表すことがあります。

Where do you stand on the political spectrum?
「極左から極右までの線分上で、あなたの立ち位置はどこですか?」ということですが、日本ではあまりこういうことを聞きそうにないだけに、自然に訳すのは難しいでしょう。聞くとしても「右派ですか?左派ですか?」のような決めつけを前提にしがちだとすれば、これが自然さを重視した訳ということになります。

ただ、学術用語としてのpolitical spectrumは必ずしも1次元ではなく、たとえば経済的左右(共産vs.保守)と社会的左右(自由vs全体)の2軸を持つ平面、つまりpolitical matrix、あるいは3軸のpolitical spaceで表される場合もあるようです。言葉の本来のイメージから離れた濫用はやめてほしいものですね。

政治以外の文脈でも使われています。
Dolphins and Jets head into Week 18 on opposite ends of the emotional spectrum.
「感情のスペクトラム」ですが、「ウィーク18を前に心理面の明暗がくっきり分かれた」ということでしょう。

They view gender as falling along a spectrum.
これはspectrumを連続的なものとして捉えていることがよく分かる例です。ジェンダーは男性か女性かの2者択一的なものではない、という見方をしているということですね。

翻訳講座で、訪日客のガイディングで、そしてこのコラムでも、spectrumのように具体的にイメージできるメタファーをうまく使って、「目からうろこが落ちた」と言っていただけるような説明をしたいと改めて思いました。

村瀬隆宗 慶応義塾大学商学部卒業。フリーランス翻訳者、アイ・エス・エス・インスティテュート 英語翻訳コース講師。 経済・金融とスポーツを中心に活躍中。金融・経済では、各業界の証券銘柄レポート、投資情報サイト、金融雑誌やマーケティング資料、 IRなどの翻訳に長年携わっている。スポーツは特にサッカーが得意分野。さらに、映画・ドラマ、ドキュメンタリーなどの映像コンテンツ、 出版へと翻訳分野の垣根を超えてマルチに対応力を発揮。また、通訳ガイドも守備範囲。家族4人と1匹のワンちゃんを支える大黒柱としてのプロ翻訳者生活は既に20年以上。

村瀬隆宗のプロの視点のアーカイブ

第40回:Spectrum:映像化しやすくも訳しにくい比喩的用法

第39回:Ability, Capability, Capacity, Competence:AIを駆使してAIに勝つ

第38回:Inauguration:トランプ大統領就任演説を聴いて

第37回:Demure:ジョークの「奥ゆかしさ」がトレンドに

第36回:Birds of a Feather:最近の洋楽ヒット曲に学ぶ英語表現

第35回:Swing States:無視される大都会

第34回:EqualityとEquity:そしてFairness、Justice

第33回:Resolution:その翻訳、「解像度」は足りていますか?

第32回:Frailty:フレイルと猛暑そして大統領選

第31回:Special moment:「特別な瞬間」よりも自然に訳すコツ

第30回:Another Version of Me:違う「世界線」の自分

第29回:Inflection Point:いつか翻訳が通訳に繋がると信じて

第28回:Hallucination:生成AIとの付き合い方

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第25回:Share:provideやgiveより使われがちな理由

第24回:Vocabulary:翻訳者は通訳者ほど語彙力を求められない?

第23回:Relive:「追体験」ってなに?

第22回:Invoice:なぜ「インボイス制度」というのか

第21回:Excuseflation:値上げの理由は単なる口実か

第20回:ChatGPTその2:翻訳者の生成AI活用法(翻訳以外)

第19回:ChatGPTその1:AIに「真の翻訳」ができない理由

第18回:Serendipity:英語を書き続けるために偶然の出会いを

第17回:SatisfactionとGratification:翻訳業の「タイパ」を考える

第16回:No one knows me:翻訳と通訳ガイド、二刀流の苦悩

第15回:Middle out:トップダウンでもボトムアップでもなく

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第13回:Bird’s eye view:翻訳者はピクシーを目指すべき

第12回:2つのquit:働き方改革と責任追及

第11回:Freelance と “Freeter”:違いを改めて考えてみる

第10回:BetrayとBelie:エリザベス女王の裏切り?

第9回:Super solo culture:おひとりさま文化と翻訳者のme time

第8回:Commitment:行動の約束

第7回:Mis/Dis/Mal-information:情報を知識にするために

第6回:Anecdote:「逸話」ではニュアンスを出せません

第5回:Meta:メタ選手権で優勝しちゃいました

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第2回:Translate〜翻訳者は翻訳するべからず?〜

第1回:Principle〜翻訳の三原則とは〜

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