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相田倫千先生のコラム 『英語をキャリアとして一生続けていく』 大学卒業後、米ニューヨーク州立大学、オレゴン州立大学でジャーナリズムを学び、帰国後、ISSインスティテュートに入学。現在はフリーランスの通訳者・翻訳者として、主に半導体、産業分野のエキスパートとして活躍中。

第1回:思えば遠くへ来たものだ‐関西からアメリカ、そして首都圏

“This concludes our 13th technical meeting. Thank you very much for you cooperation.”
・・・終わった、上手く行った!
といつも通り、技術会議の通訳が終わった。外は少し肌寒い。そろそろ月が出ている頃だ。明日は土曜日、気持ちは週末。「帰りにチーズと生ハムでも買って帰ろうかしら」と思いながら、特急に乗るため駅へ向かうタクシーに乗る。
今では、日常となったこのような生活パターン。帰宅して、予め用意している夕食を温め家族と過ごす。子供達ももうすぐ大学に入る高校3年と高校1年。
通訳歴20年、そのうちブランク歴5年。
「思えば遠くへ来たもんだ」、という台詞を思う。

育ったのは神戸、教育を受けたのはアメリカニューヨーク州とオレゴン州、結婚して住んだのが群馬県、そして埼玉県北部から首都圏へ。
どこへ行っても、英語がともにあった。私の人生の中にはいつも英語があり、そしてそれがあったから、結婚に伴う転勤、忙しかった子育てそして受験を乗り越えて来られたのだと思う。女性にとって、一生出来る専門職はそう多くない。企業に勤めれば、続けるということが前提条件である。辞めればそこでキャリア街道から(一時的にせよ)降りることになる。例外を除いてその後の出世は難しい展開になる。その中で、家ででも外ででも出来る仕事というと、英語を極めるということが一つの選択肢として挙がってくるのではないだろうか?少なくとも私の場合はそうだった。

…とまあ前置きはここまでにして、自己紹介をさせていただきたいと思います。
「皆さま初めまして。会議通訳者の相田倫千(そうだ みち)です。現在、(株)アイ・エス・エスの会議通訳、そしてアイ・エス・エス・インスティテュート東京校で通訳講座の講師をしています。その他、大手精密機器メーカや自動車メーカから継続的に仕事を受注し、通訳及び翻訳の業務を請け負っています。秋の忙しい時には、月曜から土曜まで仕事をするという状態が続いています。
今日は、第一回目ということで、私が通訳の仕事をするきっかけなどをご紹介したいと思います」

私が初めて通訳者にお目にかかったのは、関西にいたころの話です。私の友人が、通訳に興味を持っていて、当時開催された通訳学校の一番上のクラスのデモンストレーションに申し込み、付き合いで連れて行かれたのでした。
その時、当時の同時通訳者の女性が、「通訳とは家庭と両立できる職業です。時々出張がありますが、その時はおでんやカレーをたっぷり作り出かけます。基本的には、子どもの夏休みなどは、お仕事はお断りしてオフにしています」とおっしゃったのです。なんてすばらしい!こんないい職があるなんて!好きな時に働けるなんて最高!と思いましたが、その後行われた授業のデモンストレーションで、一番上のクラスの生徒さん達が、内容は確か医学だったと記憶していますけれど、そのテープの音声についてシャドーイングをしているのを見て、「これは私とは違う人種だ。こんなサーカスみたいなこと出来るわけがない。人間技じゃない」と結論づけ、それっきりになってしましました。まさか数年後、自分が同じことをしているとは露ほども思わずに・・・・。そして「好きなときに働ける」ということがいかに間違った考えであったかを学ぶ事になろうとはユメユメ思ってもいませんでした。

その後、アメリカのニューヨーク州立大学バッファロー校へ留学し、マスコミュニケーションとアメリカ研究を専攻卒業、その後奨学金をもらって、オレゴン州立大学のスクールオブジャーナリズム(大学院)へ進んだのですが、大学院であまりに勉強し過ぎたのか、高熱を出し、肺炎にかかり、帰国して結婚しました。修士号は取得していません。当時はまたオレゴンへ戻り、修士論文を書くつもりでした。
ところが、です。帰国し、結婚したら、夫の赴任先が、大きな製造拠点のある群馬県O町ということになりました。アメリカへ戻る気持ちが消えつつあり、仕事を探そうとJapan Timesを何気なく見ていると、【アイ・エス・エス通訳募集;イランへ出張、某大手メーカ】という求人広告が目に入ったのです。当時は新聞で求人を募集していたのですね。20年前のことです。すぐさまアイ・エス・エスのオフィスへ電話をし、営業の女性と話すと、面接に来てほしいということだったので、面接そしてトライアルととんとん拍子に終わり、すぐさまイランへ行くこととなりました。 このイランへの案件が、その後の私の人生設計を変えることとなりました。
仕事の内容などは、折々コラムの中で話すこととしますが、この出張で、人と人を繋ぐ楽しさ、お互いに言葉を理解できない人たちの中で橋渡しをし、しかも専門用語を駆使し、仕事も完成させる楽しさやプライドを、新人ながら味わえたのです。これはなにごとにも替えられない、と感じました。海外へ出張する楽しさ、色々な人と出会える特権、そして通訳という特殊な位置づけ。「決まった!私は同時通訳になりたい!会議通訳者になりたい。これからはそのための勉強をする!」と誓ったのでした。

仕事から始まり、その後学校へ入って同時通訳の技術を学び、独立し、今日に至るという順序としては逆なのかもしれないですが、そういう経緯で通訳人生が始まりました。
もちろん、いつも順風満帆で来たわけではありません。
会議通訳者として駆け出したと思ったら、男の子が年子で二人立て続けに産まれ、通訳のキャリアが危うくなった時代もあります。夫の転勤で来た群馬県、小さな子どもがいて、都内の仕事は請けることはできません。子供って熱も出せば喘息の発作も起こすし入院だってします。特に二人とも喘息持ちで、そこから肺炎をおこし、入院するということも一度や二度ではありませんでした。
出だしは順調だった私の通訳キャリアも、この後はしばらく苦労が続きました。
気がつくと、転勤、子育て、PTA、子供のスポーツ(野球、サッカー)、強烈な受験と一応のことを経験し、今も変わらず会議通訳の仕事を続けているということになっています。
きっと私は腕も落ちてダメになるんだろうな、と悲観的だった時期もあります。でも、そうはなりませんでした。それには、秘訣と根性と努力が必要なのです。

従って、やっと仕事について語れる時が来たと思っています。
私は、特に恵まれた環境で仕事をしてきてわけではありません。ごく普通の女性で、特に素晴らしい才能の持ち主でなければ経歴を持っているわけでもありません。
こんな私でもこの条件でやってくることができました。
それをこのコラムをご覧になる皆さんと共有できたら良いと思って今回、執筆をお引き受けすることにしました。
失敗や困ったことや自爆ネタもたくさんあります。

ただ、一言だけ言えるのは「女性はしなやかにたおやかに虎視眈々とキャリアをまっとうしましょう。強く生きて自分で食べて行ける女性になりましょう。(英語が好きなら)それには英語が近道です」ということです。

これからしばらくお付き合いください。
たくさんお話したいことがあります。私が今までに経験してきたことは、きっと皆さん、一つや二つは思いあたる、または今後経験するかも知れないと思うからです。
仕事は続けてください。そして仕事を愛するように努力してください。
これが第一回のメッセージです。

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