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相田倫千先生のコラム 『英語をキャリアとして一生続けていく』 大学卒業後、米ニューヨーク州立大学、オレゴン州立大学でジャーナリズムを学び、帰国後、ISSインスティテュートに入学。現在はフリーランスの通訳者・翻訳者として、主に半導体、産業分野のエキスパートとして活躍中。

第7回:それでも私は通訳をしたい!(子育てと仕事の両立・後篇)

皆さまこんにちは。今日は「子育てシリーズ」の後篇、「それでも私は通訳をしたい!」です。

前回のコラムを読んだ大阪在住の幼馴染が、読み終わったあと涙が止まらず、私が苦労したことがよくわかったとメールをくれました。その他も絶句したとか、色々と感想をいただきました。ありがとうございます。でも本人はいたって「普通」にやってきております。人生って一つしか経験できないので、他のパターン、例えば子供がいても、とてもやりやすいお子さんで、あまり苦労をせず職場に復帰し、そこからキャリア街道まっしぐらの人生や、シングルで仕事をしながらナイトライフも楽しむとか(子供がいると基本的には夜は出かけられません)、夫婦だけとか色々とありますが、そういうオプションを羨ましいと思う間もなくアッという間に気付いたらこの年齢だったというわけです。

さて、家庭にいることを選択したその後ですが、それでもやっぱり英語の仕事を捨て切れず、近所の英会話スクールと提携して、帰国子女の男性と一緒に大学受験の英語を教える塾を始めました。これなら私の担当は週1回だけ、夜4時間ほどベビーシッターさんに預けながら、長男は幼稚園へ入れて仕事が出来る、これで完璧!と思ったのです。

生徒も集まり信頼できるシッターさんも確保し、塾がスタートしました。長男も無事幼稚園に入り、昼間は2歳の次男と二人、近所や社宅時代の友達親子と毎日遊ばせ、長男が帰ってきたらおやつを食べさせてシッターさんを待つという日々が始まってしばらく経った頃、シッターさんが来る曜日と時間帯になると、長男と次男の口数が減り、私の体から離れなくなったのです。シッターさんが呼び鈴を押すと、「わぁ~~」と泣きだすのです。でも塾の生徒さんは大学受験のために来ているわけで、ここでやめることは出来ないのです。ですから、泣く二人の子供を、シッターさんに押しつけるようにして出かけました。出勤する車の中で、私の体は震えていました。

そのうち長男は、幼稚園へ行けなくなってきたのです。喘息もひどくなり、小児科の先生に相談すると「幼稚園は行かなくてもいいんじゃないですか?お母さんが好きっていうなら、言葉通りにしてあげればどうですか?」と言われ、夫にも「別に幼稚園行かなくっても人生変わらないし、お前の気のすむようにしたらいいよ」とはげまされ(?)、次の日からそのまま家で「お母さん幼稚園」をすることにしました。毎日折り紙や絵本や外遊びで過ごしました。それが1学期分続いた頃、突然長男は「●君、よおちえん行く」と言いだし、次の日からあっさりと復帰しました。そのころ私は、精神的にも疲れ切っていたので、そのまま1年間、次男が幼稚園の年齢になるまで仕事はせず家庭で子供達を見ることにしました。塾も一期生を合格させると、後継者に譲りました。

その後次男も幼稚園へ入り、長男も無事に年長組になり、体もしっかりしてきたので、ある秋の日、いったんは捨てた英字新聞をごみ箱から取り出して何気なく見ると、埼玉北部に製造拠点のある、某大手精密機器製造会社が期間限定で通訳を募集していたので、応募をしてみました。あとで聞くと、500人が応募してきたらしく、私はその中で一人採用されたようでした。採用の決め手は、通訳学校を出ていること、資格を持っていること(通訳検定と英検)、ある程度経験があることだったようです。2回のトレーニング通訳と技術通訳を行うということで採用されたのですが、気に入ってもらえたようで、契約期間が過ぎてもずっと仕事をして欲しいと言われ、快諾しました。職場は当時住んでいた群馬県から車で40分の距離にあり、非常勤という身分であったので、私にとってベストの条件でした。実家からも退職していた父親に来てもらい、子供達を見てもらいました。そこから、とんとん拍子に仕事が増えて行き、そのまま子供達は保育園へ移り、その企業からは今も時おり通訳や翻訳を受注しています。

子供達はスポーツが得意だったので、小学校に入ってから、長男は野球、次男は柔道とサッカーのチームに入りました。休日はいつもどちららかのチームの試合応援やお茶当番があったり、合宿があったりしたので、土日も時間を取られ、仕事以外はまったく自分の時間が持てない時代が6年間続きました。その間、私の仕事が忙しくなり過ぎると、子供達との時間がとれなくなるので、自分でうまく調整しながら、学校の先生とも連携をとりながら、単身赴任の夫とも毎日電話をしながらスポーツや学校生活の嵐を乗り切ってきました。もちろんその中では、学校と部活動で役員をしたり、受験戦争に参加したり(塾弁当(昼食と夕食)というものも毎朝5時に起きて作って仕事に行きました)世の中の母親が経験するであろうことはおよそ全てやって来たと思います。学校の役員よりも、野球部の役員の方が大変でした。またスポーツ関係の親のお付き合いは、我が子が試合に出る・出ないなど、なかなか気を遣うところですが、自分の子供の状態が良くないと、私に面と向かって「●君は守備のミスも多いし、最近打たないのに、なぜレギュラーに残ってるの?」と言う親御さんもいました。それも全て「笑って」対応して来ました。レギュラーに残れないことは、きっと応援している親御さんにとっても悔しくて悲しいことなのです。スポーツや受験を通じての親との付き合いで、色々なことを学びました。

その子供達も、大学1年と高校2年。二人とも大学附属に行ったので、受験は終了し、今は平和に仕事に没頭できるようになったのです。まさに18年ぶりに。

結論から言うと、育児は当事者である親が納得のいくようにすれば良いのだということです。これを読んで、「やはり子供と一緒にいてやらなければいけない」とか「母親はこうであるべきだ」などと解釈しないでください。本人である私がそうしたかったから、そしてそうすることが、私が営む家庭環境ではベストであったと判断したから、そうしたのです。友人の中には、大企業に総合職で入社し、子供が小さい時に海外出張もこなすし、仕事をしっかりして出世し、管理職をしている人もいます。お子さんはしっかり育っています。また、離婚した後子供を一人で育てている友人もいます。いずれの場合も、子供達は元気で、しっかりしています。離婚した友人のお子さんなど、家計を心配して奨学金の選抜試験を受け、大学の費用は無料になったらしいのです。なんて立派なのでしょう!

そうなのです、「これが正しい育児法」という「正解」はないのです。私の場合は、きっと私が一番不安だったのでしょう。だから子供も不安になったのかもしれません。でも本当のところはわかりません。夫は私が子供のことを気にし過ぎである、もっと自分を優先させてもいいのではないかと何度も言いました。私がもっと仕事をやっていても、今と変わらなかったかもしれません。

でも、これだけは言えます。精一杯やってきた、私の中でこれ以上もこれ以下もなかったということです。皆がそうしているように、与えられた環境でベストを尽くしてきた、これが自分の誇りです。このめまぐるしい育児の中でも、毎日夜中でも、たとえ15分でも英語を勉強し続けました。
タイトルにもありますが、それでも私は通訳をしたかったのです。それが自分を支えたのだと思うのです。

その後、母親が大好きだった子供達がどうなったかをご報告いたします。
20日ぶりにイスラエル出張から帰国した時の、甘えん坊の次男との会話です。
私:「お母さんがいなくて、さみしかった?どうだった?」(さみしかったと言われることを期待している)
次男:「・・・・・・・」(間が空いて)「あ、洗濯がたいへんだった。」(そ、それだけ?)
ですって・・・・

果たして私の犠牲の精神と献身的な愛は報われたのでしょうか?????

いいのです、たとえ報われなくても、それでも私は通訳がしたい!英語は私を裏切らない!と思うのです。

English is my best guide.

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