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プロの視点 ー 通訳者・翻訳者コラム


会社辞めて地方に移住して
翻訳始めて兼業主夫と
イクメンやってみた
鈴木泰雄

第5回

翻訳者として軌道に乗った。ところが、その先に思わぬ苦労が・・・

上京カード飛び石作戦で翻訳業が軌道に乗ってくると、それまでは仕事を獲得することに夢中で、あまり意識しなかったマイナス面にも目が向くようになってきました。それが今回取り上げる「3つの忍耐」です。

◆魅力と忍耐は裏表――翻訳業を続けるための「3つの忍耐」

この「3つの忍耐」はどれも私にとっての翻訳業の魅力、つまり、「読む喜び」「書く喜び」「自由の喜び」と裏表の関係にあります。

もともと翻訳業は一人で家にこもる孤独な職業です。まして地方在住となると、愚痴をこぼせる翻訳仲間に出会う機会もめったにありません。そして、40代で転身した私でも20年、もっと長い人なら30~40年にわたって翻訳者生活は続きます。

そう考えると、こうしたマイナス面に一人で耐えていけることもまた、「3つの好き」「3つの得意」と並んで必要な能力・適性なのだと思います。

◆忍耐①:昨日も今日も明日も同じ日 ―― 読む喜びの裏に

文章を読む喜びの多くは、新しい知識や知らない世界に触れる喜びです。しかし、時には読む喜びが消えた後も朝から晩まで、前へ後ろへと黙々とページを繰る生活が続くのが翻訳業です。

つまり、出版翻訳はもちろん、実務翻訳でも厚い文献資料や報告書を受注すれば、数週間~数カ月にわたり1冊の書籍や文書と取り組むことになります。今日は10ページ、明日は8ページと、ひたすら訳し続ける毎日が始まるのです。

推敲作業に移るとさらに何回も読み返し、何ページも前(または後)の文章と解釈・訳語・表現を整合させながら、翻訳の精度と読みやすさを最大限に磨きます。出版翻訳では、これが1年近く続くこともありました。1か月前も昨日も今日も同じような日々が続くうちに、やがて今日が何曜日かも、昨晩、何を食べたかも頭からこぼれ落ちていきます。

この代わり映えがしない日々から脱け出すことを期待して、一時期、海外のウェブ記事を毎日1本ずつ和訳する仕事を引き受けたことがあります。毎朝届く担当記事を翻訳し、昼までに納品する仕事です。毎日、新しい情報に触れられる上に、午前中で完結するので別の翻訳案件と両立しやすいと考えたのです。

でも、甘かった。まず、朝の家事・育児を済ませて定時に机に向かうだけでも綱渡り。しかも、そこから直ちに“翻訳脳”に切り替えてギアを上げ、数時間で一般読者が読みやすいレベルに仕上げるのです。午前中で集中力は尽き、午後はヘトヘト。さらに「今日は記事なし」のメール1本で仕事が飛び、やる気も収入も吹き飛んでしまいます。

◆忍耐②:原文という名のオリ(檻)の中 ―― 書く喜びの裏に

私が翻訳業を目ざした理由の一つは、文章を書くのが好きだったことです。だから、訳文を練り上げていく楽しさに酔い、翻訳業は天職と感じることもありました。

でも、当たり前ですが、たとえば、どんなに話の展開が回りくどくても、翻訳者は内容をいじることができません。あくまで原文に沿いながら、少しでも分かりやすい訳文を求めて呻吟していると、原文がオリに見えてくるときがあります。

さらに言えば、原文の内容も常に正しいとは限りません。極端な例ですが仮にトンデモ本のような内容であっても、引き受けたら訳すのが翻訳業です。せいぜい訳注で抵抗するのが関の山でしょう。

内容以前の問題もあります。たとえば、国際会議のテープ起こし原稿から議事録を作成するような場合です。

ネイティブではない話し手だと、文法上の破綻や単語・熟語の誤用で訳文の意味が取れないことがあります。ネイティブの話者でも”you know”や”I mean”や”kind of”など、実質的な意味を持たないフィラー(”filler”)だらけで論旨が不明確なときや、マイクが不調だったのか単語が途切れ途切れに並んでいるような場合があります。

こうなると議事要約ならまだしも、逐一翻訳していくのは至難の業です。想像力を目一杯に働かせて訳した上で、訳注で補足(言い訳)するしかありません。通常の何倍もの手間と時間がかかったあげく、納品後も、意味を正しく汲み取れたかという不安と徒労感が残ります。

翻訳者である限り原文のオリから逃げられません。その反動で、私は自由に表現できる場を求めてエッセイやラジオCMのコンテストへの応募、4コマ漫画、写真ブログと、いろいろな創作活動に手を出しました。素人芸にすぎませんが、息を詰めるようにして訳し上げた納品ファイルを送信した真夜中、グラス片手に自由にアイデアを練る楽しさは格別です。

◆忍耐③:自由業は不自由業 ―― 自由の喜びの裏に

最近見たNHKのテレビ番組の中で、「人間関係のせいで40年間ずっと会社が嫌だった」と語る方がいました。40年間も我慢して勤め上げたことに感心する一方で、上司も根回しもラッシュもない翻訳業は天国だと思いました。でも、組織からも通勤からも自由になった代わりに、安定と安心を手放し、個人事業主として新たな不自由と忍耐にさらされます。自由業は不自由業なのです。

たとえば、かなり前になりますが、日本を代表する舞台俳優が「役者は公演が一つ終われば失業者」と語る記事を目にしたことがあります。その時、私は不遜にも「自分と同じだ」と思いました。

フリーランス翻訳者も案件が一つ終われば失業者です。複数の会社から複数の案件を受注して締め切りに追われる日々が続いていたのに、パタリと注文が途切れて仕事が空くことがあります。すると、もしや切られたのではと不安になり、何が悪かったのかと、納品した案件や打診を断ったメールを見直します。数日後に再び1か月先までスケジュールが埋まっても、頭の隅には常に失業の不安が残ります。

この不安の根底にあるのは、フリーランス翻訳者には常に代わりがいるという現実です。特に実務翻訳では、よほど特殊な分野や状況でなければ、特定の翻訳者しか訳せない案件などないでしょう。つまり、自分が仕事を断れば、別の登録翻訳者に声がかかるだけなのです。

その一方で、会議資料を訳したら次はその会議の議事録というように、一つの仕事を受けるとそこから派生する案件が回ってきます。さらに、仕事を断らず、一定の品質と納期を守っていると連続して声がかかり始めます。だから、つい無理をしてでも引き受けてしまいます。

また、代わりがいくらでもいる個人事業主のフリーランス翻訳者は、多かれ少なかれ組織に守られているサラリーマンと比べて弱い立場です。それでも、これまで私は納期や分納や共訳などの条件については、低姿勢を保ちつつも自分の希望を伝えながら受注してきました。

しかし、価格交渉だけは別です。なぜなら、値上げを断られた上に面倒な相手と思われて声がかからなくなるか、値上げに成功しても低単価の翻訳者に仕事が回されるかのどちらかだと思うからです。ちなみに、翻訳会社の側から翻訳単価を上げてくれたのは20年間で1社だけでした。

◆それでもやっぱり翻訳業 ―― マルチな役割が処方箋

3つの忍耐にもかかわらず私が長く翻訳業を続けてこられたのは、単に翻訳業の魅力が勝っていたからというだけではありません。逆説的ですが、職業人以外の役割も十分に果たしてきたからです。

弱い立場にある翻訳者ですが、納期と品質さえ守ればスケジュールの組み方はまったく自由です。この“特権”を生かして、職業人に加えて家庭人や生活人や趣味人としての暮らしを充実させること――それによって、代わり映えがしない不安で不自由な日々に変化と活力が吹き込まれ、生活が複層的になります。しかも、家庭が順調に回れば翻訳業を続けやすくなります。だからこそ私は、ライフキャリア的な視点を大切にしたいと思うのです。



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次回からは翻訳者という「職業人」としての役割と、「家庭人」としての役割の両立について取り上げます。

鈴木泰雄 京都大学文学部卒業。MBA(ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院)。大手飲料メーカーにて海外展開事業等のキャリアを積んだ後、翻訳者として独立。家事・育児と両立しながら、企業・官公庁・国際機関向けの実務翻訳のほか、「ハーバード・ビジネス・レビュー」「ナショナルジオグラフィック(WEB版)」をはじめとしたビジネスやノンフィクション分野の雑誌・書籍の翻訳を幅広く手掛けてきた。鳥取県在住。

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