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プロの視点 ー 通訳者・翻訳者コラム


会社辞めて地方に移住して
翻訳始めて兼業主夫と
イクメンやってみた
鈴木泰雄

第8回

翻訳業と家事・子育てを両立するための翻訳作業の進め方

前回取り上げたのは、翻訳業と家事・子育てを両立させるためのスケジュール管理でした。今回は品質と納期を確実に守るため、翻訳作業の手順を見直した話です。

◆親亀のお腹に子亀を乗せて

ある日の午後、パソコンに向かっていると保育園から電話がありました。「お子さんが歯痛で泣き止まないので、お迎えを」と言われてすぐに保育園に車を走らせ、その足で歯医者に向かいました。幸い待合室はガラガラ。待たされることなく診察台に座ったわが子でしたが、急に怖くなり、全身を震わせて泣き叫び始めました。これには先生も手を出せず、看護師さんが総出であやしても泣き声は大きくなるばかり。やがて、その中の一人がこちらに向き直り、私にこう告げました。

「お父さんのお腹の上に寝かせてあげたら、落ち着くかもしれません」
 一刻も早く仕事に戻りたかった私は言われるままに診察台に寝そべり、お腹の上に子どもを仰向けで乗せました。それでも子どもは泣き止まず、そのままの姿勢で延々と泣き続けたため、結局、日を改めて出直すことに。

家に帰り、もらった鎮痛剤を飲ませ、おやつも食べさせて機嫌を取り戻したころにはもう夕食を準備する時刻です。午後は一番仕事がはかどる時間帯なのに・・・。帰宅した妻に顛末を話すと、親亀の腹の上でジタバタする子亀を想像して大笑い。でも、午後が丸つぶれになった私としては、笑い話で済ませるわけにはいきませんでした。

◆ボトルネックは訳文の入力作業

前回紹介したような予定表を作り、週1会議まで開いて綿密にスケジュールを管理していても、子どもの病気やケガは予測不能です。中学生のころにも、せっかく運動部の学校代表に選ばれたのに大会前に骨折し、10日間ほど、毎日のように車で整形外科へと送り迎えしたことがありました。

だから、常に予定より前倒しで作業を進めるのは当然として、さらに作業手順も見直しました。当初は何かで読んだ出版翻訳者の話にならい、原文を一通り読み、不明な用語を調べて訳語を決めた上で、ある程度まで訳文のイメージを固めてからパソコンに打ち込んでいました。しかし、この入力作業が大きなボトルネックでした。いまならばAI翻訳なども使って短縮できそうですが、当時は一括変換や音声入力などの機能を駆使しても、かなり時間がかかったのです。だから、いくら頭の中で訳文を練り上げていても、入力する前に大きなトラブルが起これば、最悪の場合は納期に間に合いません。

◆納期と品質を守るための作業手順

そこで手順を見直し、原文をざっと読んだらすぐに(簡単な文章ならば初読でいきなり)訳文を入力することにしました。私はこれを「初訳」と呼んでいます。この段階では訳語や解釈が定まらない単語や文章が多くありますが、仮訳を置くか原文のまま青字に変えて先に進み、スピード優先で日本語に置き換えます。

こうして全文の初訳を済ませたら、そこで初めて詳細な調査と読み込みを行い、青字や仮訳の部分の訳を決定していきます。それを一括変換用のマクロ等も活用しながら全文に反映させていくのが「推敲1」で、これが済むと全体を通して日本語の文章として読める状態になります。そこから「推敲2」「最終推敲」と推敲のレベルを上げて訳文の精度と読みやすさを磨き、納品に至ります。

こうすると先にボトルネックを通過しているので、途中で多少のトラブルが生じても、納期や品質に致命的な影響を与えずに切り抜けられます。結果として、家事や子育てをめぐるトラブルや予定変更にピリピリすることも減りました。

付け加えると、推敲の段階では一日の作業が済むたびに訳文を印刷します。特に乳幼児期は頻繁に体調を崩すものですが、冬場など小児科が混雑して長時間待たされます。その上、点滴ともなると子どもを膝に抱くか、点滴を受ける子どものベッド脇に腰掛けて、何時間も付き添わなければなりません。そんな時も最新の訳文が手元にあれば、待合室や点滴室で推敲作業を進められます。これもまた手順変更のメリットでした。

このような作業手順は、実務やノンフィクションの分野だから可能なのだと思います。また、携帯端末もAI技術も格段に進歩したいまは、もっと優れた方法がありそうです。人により時代により作業スタイルはさまざま。スケジュール管理に加えて作業手順も私なりに工夫することで、少しずつ仕事と家事・子育てが両立しやすくなっていきました。

◆国際会議やオリンピックは調査から

さて、前項で「初訳」と称して「すぐに訳文を入力する」と書きましたが、これには例外があります。それは国際機関が開催する会議や、オリンピックのような国際イベントに関連する文書です。さまざまな用語に公式訳や定訳があることが多いので、いきなり訳文を入力したり翻訳ソフトにかけたりせずに、まず関連サイトを調べます。

たとえば、日本オリンピック委員会のHPには『オリンピック憲章』(※1)の対訳版が載っていて、そこでは“International Federation”(略称“IF”)という用語が「国際競技連盟」と訳されています。原文に「競技」に相当する英単語は含まれていませんが、オリンピックの関連文書ではこれに従います。

このほかにも、『2030アジェンダ』の原文(英語)は国連のHP(※2)にありますが、その和訳が外務省のHP(※3)に仮訳として掲載されています。また、赤十字国際委員会(ICRC)の日本語サイトには「ICRCの使命」(※4)という項目があり、これが英語サイトの”Our Mission Statement” (※5)の内容と対応しています。これらに関連する文書を訳す際は、まず、こうしたサイトを参照すべきです。

別の例として”Gender Equality”という用語に触れておきます。私ならば一般向けの読み物ではこれを「男女平等」と訳し、国連やSDGsに関する文書では「ジェンダー平等」と訳すでしょう。しかし、国際会議などの場で日本の行政機関がこの用語を用いていたら、文脈にもよりますが、かっこ書きか訳注で「原文は”Gender Equality”」と添えた上で「男女共同参画」と訳すことになると思います。なぜなら、それが日本政府の使用する用語だからです。たとえば、内閣府の男女共同参画局の英語名称は”Gender Equality Bureau”ですし、『令和6年度男女共同参画白書』も英語では“The White Paper on Gender Equality 2024”と紹介されています(※6)。

なお、「男女共同参画」という言葉が初めて行政で使われたのは1991年と比較的新しく、それ以前は「男女共同参加」と呼ばれていたそうですが(※7)、私にはどちらも硬くて不自然に感じられます。それに「平等」ではなく「共同参画」とすると、男女ともに力を発揮することばかりに焦点が当たり、根底にある男女格差や旧来の役割分担、それに男らしさ/女らしさの固定観念には目が向きにくくなりそうです。しかし、実務翻訳の訳文に、そうした個人的な感覚を反映させることはありません。

◆賢いスケジュール管理は翻訳速度の把握から

翻訳作業の話に戻りますが、作業予定を適切に組むには自分の翻訳速度を知らなければなりません。そこで私は、当初、下のようなEXCEL表を作成していました。

前回紹介した予定表に作業時間の実績を毎日記録しておき、納品が済んだら、この表の実績欄に入力します。そうすれば「1時間当たり原文〇words」という形で、ビジネスレター、社内文書、論文、記事、書籍など種類別に自分の翻訳速度をつかめます。

さらに、通読・初訳・推敲など作業段階別の比率も分かります。簡単な文書では初訳>推敲ですが、内容が難解だったり、書籍・雑誌など一般読者向けの文書だったりすると推敲時間が長くなります。私の場合、推敲時間の目安は実務翻訳で初訳の1.5~2倍、書籍・雑誌向けでは2~3倍です。

こうした情報を基にして「この分量と内容ならば通読、初訳、推敲、調査が…時間ずつで合計〇時間」という形で作業時間を見積もり、前回紹介したような予定表に落とし込んでいきます。



***


次回は、夫婦双方のキャリアと家事・子育てを長く円満に両立させていく観点から、家事・子育ての分担方法を取り上げます。



脚注(2025年3月現在)
※1 https://www.joc.or.jp/olympism/principles/charter/
※2 https://sdgs.un.org/2030agenda
※3 https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/sdgs/pdf/000101402.pdf
※4 https://jp.icrc.org/about/
※5 https://www.icrc.org/en/our-mandate-and-mission#big-ideas939600
※6 https://www.gender.go.jp/english_contents/index.html
※7 https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000340048&page=ref_view

鈴木泰雄 京都大学文学部卒業。MBA(ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院)。大手飲料メーカーにて海外展開事業等のキャリアを積んだ後、翻訳者として独立。家事・育児と両立しながら、企業・官公庁・国際機関向けの実務翻訳のほか、「ハーバード・ビジネス・レビュー」「ナショナルジオグラフィック(WEB版)」をはじめとしたビジネスやノンフィクション分野の雑誌・書籍の翻訳を幅広く手掛けてきた。鳥取県在住。

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