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プロの視点 ー 通訳者・翻訳者コラム
会社辞めて地方に移住して
翻訳始めて兼業主夫と
イクメンやってみた
鈴木泰雄
第10回
大切なお金の話――考えておくべき経済的リスクと備え
今回は、翻訳者の暮らしを語る上で無視できない現実的な問題――お金の話です。
◆翻訳者の位置づけは?
国際会議で日本人が英語でスピーチをすると、たいてい「英語で」という一言を添えて報じられます。それと同じことで、外国語を扱う翻訳者は、社会的には(少なくともご近所からは)それなりにリスペクトされる存在だろうと思います。
しかし、経済的な信用度は低いのが現実です。たとえば、私は過去に2回、ある銀行にまったく同じ条件の取引を申し込んだことがありますが、1回目は簡単に審査を通り、2回目は取引を断わられました。
その間に私はサラリーマンを辞めて地方に移住し、翻訳業に就いていました。フリーランスの信用度は低いと覚悟していたものの、1回目は30歳そこそこの平社員、2回目は何冊か訳書を出し、実務翻訳の仕事も軌道に乗った後だったので、やはり残念でした。
◆フリーランス翻訳者の懐事情
フリーランス翻訳者は一般的に収入が低くて不安定。将来の保証もありません。こう書くと「あなたは翻訳者が多い英日翻訳だし、特別な専門性もないし、翻訳会社経由で受注しているからだ」と叱られそうです。しかし、それを差し引いてもなお、翻訳業で安定して高収入を稼げるのは一部に限られるように思います。
〇懐事情1:低収入
実務翻訳の収入は「単価×枚数」で決まります。翻訳会社との契約単価は直接取引より低いものの、営業や調整に時間を取られない分だけ翻訳に専念できます。
私は第8回で紹介した集計表で自分の翻訳速度を把握した後、契約単価で実現できる収入を試算してみたことがあります。すると、切れ目なく受注する前提で1週間に5~6日、1日に8~10時間働いてもサラリーマン時代に遠く及びません。それでも仕事を回してもらいたくて、単価交渉には踏み出せませんでした。
その代わりに考えたのが作業時間を増やし、作業効率も高めて翻訳枚数で稼ぐことでした。パソコンのツールやソフトを最大限に活用しましたし、第7~8回で紹介したスケジュール管理の徹底や作業手順の見直しは、この“薄利多売路線”の一環でもありました。
〇懐事情2:不安定
受注量が変動するだけでなく、納品が月1回の締め日(納品枚数の集計日)をまたいでしまうと入金が1カ月ずれ込みます。数カ月がかりの案件ともなると収入が大きく、作業効率も高い半面、分納の場合を除いてキャッシュフローに大きく響きます。大型案件を受注して喜んでいたら、3カ月ほど入金が途絶えて困った経験が私にもあります。
〇懐事情3:将来の保証なし
サラリーマンと違って定期昇給はなく、スキルが向上しても翻訳単価は上がりません。1日の翻訳量も、ベテランになったからといって飛躍的には増えません。
その一方で有給休暇も傷病・介護休暇もないので、病気・ケガや家庭の事情などで受注できなくなれば、すぐに収入に響きます。さらに、サラリーマンを辞めると厚生年金から国民年金に切り替わるので、生涯の生活設計にも響きます。つまり、安定した雇用関係の下で働く場合と違い、健康や家庭の状況が変わった際や、年齢を重ねた後のセーフティーネットが脆弱なのです。
◆懐に優しい会社と厳しい会社
ところが、何冊か訳書を出したころから、「難しい案件だから鈴木さんに」といって翻訳会社から依頼が入るようになりました。頼られるようになったと思えば嬉しいものの単価は一定なので、経済的に見れば、手間がかかる案件を引き受けるのはマイナスです。
難しい(=稼げない)案件も易しい(=稼げる)案件も依頼してくれる翻訳会社が大半でしたが、そうではない会社もありました。簡単な案件は契約単価が安い翻訳者に回していたのでしょうが、生活を守るためには受注を控えざるをえませんでした。
◆IKARIって何者?――出版翻訳の沼
一方、出版翻訳はというと、実務翻訳よりも楽しい分だけ経済的には辛い世界でした。
たとえば、ある本を訳していると、さまざまなアメリカ企業の名と並んで”Ikari”という固有名詞が登場しました。ネットで調べても、ヒットするのは関西の高級スーパーとソース会社だけ。まさかと思いながら両社のアメリカでの事業展開を調べたものの、その形跡はなく、さらに中南米系やアジア系の企業へと調査対象を広げていきました。
同時に、在米の友人たちにもメールで問い合わせました。ネイティブの現役ビジネスマンなら知らないはずはないと考えたからです。しかし、返事がないか、思い当たる会社はないという回答でした。
この単語だけが宙に浮いたまま、翻訳作業は進んでいきます。正体不明でもカタカナに置き換えれば済むかとも思ったものの、はて? 「イカリ」なのか、それとも「イカライ」か「アイカリ」か・・・。
そんなある日、新聞記者として中南米に駐在した経験がある友人から回答が届きました。「自信はないがラテン語ではないか。男性名詞のIkarusを複数形にするとIkariになるはず」というのです。つまり、複数の新興企業をギリシャ神話のイカロスに例えているという解釈です。調べてみると、たしかにラテン語では(ギリシャ語でも)彼の言う通りですし、文脈上もしっくりきます。
この助言がなければ誤訳をしていたところです。はなから企業名と決めつけ、原書の校正漏れすら疑った自分の未熟さと傲慢さには恥じ入るばかりですが、1回しか登場しない単語でも、こうやって探偵気分で解明していくところに出版翻訳の沼のような面白さがあるのです――しかしながら、経済的には辛いところでもあります。
◆出版翻訳の経済性
そもそも不特定多数の読者に伝わる読みやすさが求められる出版翻訳は、推敲に時間がかかります。しかも、実務翻訳ならば訳注を付けて読み手に判断を委ねられる事柄も徹底して調査しますから、売れる本、版を重ねる本でなければ元が取れません。
出版翻訳の方が経済的に厳しい理由は、ほかにもあります。
まず、実務翻訳では訳稿を納品したら、その数か月後には翻訳料を受け取れますし、通常は納品した時点で作業完了です。しかし、私の知る限り、出版翻訳では納品から数か月後の刊行日を基準にして、そこからさらに数か月後に支払が行われます。その上、刊行までに何度かゲラの確認作業が入ります。入金が遅い上に、次の仕事に充てる時間も削られるわけです。
さらに、出版社側の都合で刊行が遅れることもあります。私の場合は、納品後に発売が大幅にずれ込み、翻訳作業の開始から数えて3年以上たって、ようやく印税が入ったことがありました。それでも刊行に至ったからまだしも、中止されていれば、出版社を相手に個人で支払交渉をすることになり苦労したでしょう。
◆フリーランス翻訳者になる前に
以上を踏まえると、副業の場合は別にして、少なくとも軌道に乗るまでの生活費を貯蓄やアルバイトやパートナーの収入などで確保しないと、暮らしに支障をきたします。
また、将来的に大きな出費となる住宅と子どもの教育については、事前に対応を想定しておきたいものです。冒頭で銀行取引の話をしましたが、フリーランスだと住宅ローンを組みにくくなるかもしれません。
教育資金については、万一の場合には掛金が免除された上で保険金が満額支給される型の学資保険に、私と妻の両方が加入しました。収入が不安定な上に、地方の子どもは都会の大学や専門学校に進むことが多く、学費に加えて仕送りも必要だからです。この保険のおかげで、受注が伸び悩んだ時期にも一定の安心感を保てました。
お金という現実的かつ切実な問題を事前に想定し、可能な対策を講じておけば家族の理解も得やすくなり、翻訳業に集中できるでしょう。
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さて、第6回から取り上げてきた家事・子育てとお金は、家族と暮らしに直結しています。そう考えると、私からの見方をお伝えするだけでは片手落ちでしょう。そこで次回は、家族としての意見を妻に直接尋ねてみることにします。
鈴木泰雄 京都大学文学部卒業。MBA(ノースウェスタン大学ケロッグ経営大学院)。大手飲料メーカーにて海外展開事業等のキャリアを積んだ後、翻訳者として独立。家事・育児と両立しながら、企業・官公庁・国際機関向けの実務翻訳のほか、「ハーバード・ビジネス・レビュー」「ナショナルジオグラフィック(WEB版)」をはじめとしたビジネスやノンフィクション分野の雑誌・書籍の翻訳を幅広く手掛けてきた。鳥取県在住。
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