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気になる外資系企業の動向、通訳・翻訳業界の最新情報、これからの派遣のお仕事など、各業界のトレンドや旬の話題をお伝えします。

和田泰治先生のコラム 『通訳歳時記』 英日通訳者、アイ・エス・エス・インスティテュート 東京校英語通訳コース講師。明治大学文学部卒業後、旅行会社、マーケティングリサーチ会社、広告会社での勤務を経て1995年よりプロ通訳者として稼働開始。スポーツメーカー、通信システムインテグレーター、保険会社などで社内通訳者として勤務後、現在はフリーランスの通訳者として活躍中。

第8回:長月

<長月の星美しき宿と聞く(稲畑汀子)>

 

通訳者の一年間を季節感豊に綴ってゆくという当初の構想だった本連載ですが、新型コロナウイルスの世界的蔓延という未曽有の災禍に直面し、通訳者のニューノーマルをお伝えすることも大切な内容になってまいりました。

 

・・・・・・・・・・・・ということで今月もまずは近況から。

  

8月の通訳業務は11件。このうち9件は在宅業務でした。相変わらず仕事量は例年の50%といったところです。これに加えて毎週土曜日はアイエスエス・インスティテュートのZoomでのオンライン授業がありました。長い梅雨が明けてから8月に入るといきなり連日の猛暑となり、熱中症の報道がコロナを凌ぐ日もあるほどです。

 

季節感と言えば、今年はこれだけ暑くなっても何となく「夏」という季節感が乏しく感じます。思えば、盆踊りや縁日、花火に高校野球と日本の夏を彩る風物詩がことごとく取り止めになりました。人の季節感というのは単に自然の移ろいだけではなく、繰り返し経験してきた心象風景と思い出によるものなのだなぁということをあらためて実感しています。

 

全国の一日の新規感染確認者数は1000人前後で推移しています。東京だけみれば200人から300人といったところです。無症状の若者が大半で、重症患者数も少ないので無用の不安を煽る必要は無いとか、第二波はもうピークに達したという専門家の先生もいらっしゃるようですが、検査陽性率も5%を超え、半数以上の感染経路が不明という状況を考慮すると、まだまだとても安心などできる心境ではありません。

 

とここでまた大きなニュースが飛び込んで来ました。安倍総理大臣が辞任とのことで、またまた先行きの不透明感に拍車がかかることになりそうです。

 

さて、今月の本題に入ります。

 

例年、通訳者が最も多忙だと感じるのは9月から11月の秋の季節です。秋は一年の中でも最も過ごし易い季節ですし、各種の大きなイベントや会議も開催され、観光、ビジネスを問わず訪日外国人が増える時期ですから、通訳需要のピークでもあります。ただ、フリーランスの通訳者の体は一つしかありませんので実際の業務消化数が二倍、三倍になるわけではありません。それでも何か秋はやたらと忙しいと感じる理由は、需給が逼迫して「日常はあまり経験のない分野の依頼を受ける」からではないかと推察しています。

 

前にもお話したように、筆者の場合は通常6割から7割くらいはIT関連の通訳です。同じクライアントの反復的な業務もありますので、依頼が入った時点で既にある程度の知識ベースを持っている状態から準備を始めることができます。

 

また、IT業界というのは、その時々で大きなトレンドの流れがあります。今で言えば、クラウド、仮想化、IoT、AI、5G、そしてこれ等を基盤としたDX(デジタルトランスフォーメーション)でしょうか。ここからはずれるテーマというのはめったにありません。資料を入手した時点で、不足分だけを補うような準備で十分なわけです。

 

ところが、所謂「繁忙期」と称される秋のシーズンになると、一時的な人手不足から、日頃はほとんど立ち入っていない領域の依頼を受けることになります。ほとんど付き合いの無いエージェントから連絡があるのもこの時期です。この手の通訳は、蓄積した知識ベースがほぼゼロの状態から準備をすることになり、現場での精神的重圧を含めた負荷は、慣れている分野の数十倍と言って過言ではありません。秋シーズンが一段落すると、「いやぁ、今年も大変だったぁ」と溜息つきつつ多忙感を感じるのはこれが主因だと私は思っています。

 

そしてその典型的な例である「学術会議の通訳」を今月のテーマにしたいと思います。

 

毎年数件は学術的な会議の通訳をしていますが、学術的な会議の大きな特徴は、テーマが高度に専門的な学術的研究の論文発表であるという点と、発表者が大学の先生であったり研究者の方々であるということです。日頃主戦場としているビジネス系の案件とは根本的に異なります。

 

まずテーマについてですが、これは当然のことながら極めて専門的な内容です。もちろんIT業界の通訳においても、最先端のテクノロジーの技術的なセミナーなどでは、非常に専門的なテーマに対処する必要があります。ただ、ITの通訳についてはまがりなりにも20有余年にわたる現場での経験則があり、また先述したその時々のトレンドからはずれない限り、100%は無理でも20%とか30%の理解から準備を始めることが可能です。少なくともゼロからのスタートということはほぼありません。

 

しかし、学術会議の場合は、依頼を受けた時点から、その論文テーマについての準備をほぼゼロから始めることになります(少なくとも筆者の場合は)。

 

ダムの構造学、船舶海洋技術、量子コンピューターと暗号技術、宇宙エレベーター実現のためのカーボンナノファイバー製造理論、防災工学、マイクロナノ技術、そして大陸部東南アジアの古代木造建築などというテーマに至るまで、その都度足りない頭脳を極限まで酷使して一生懸命勉強しなければなりません。

 

一方、学術関連の会議やシンポジウムの良いところは、スケジュールの問い合わせが非常に早い段階で入ることが多いということでしょう。3ヶ月前とか、6か月前に依頼が入り、その時点で少なくともテーマ自体はわかるのでそこから準備を始めることができます。

 

まずは可能であれば、そのテーマの初心者向けの解説資料を探すところから始めます。仮に論文資料が事前に入手できたとしても、論文を読んでそのまま理解することができないからです。書籍でも、ウェブページでも、易しければ易しいほど良いのですが、出来れば中高生向けの解説文献があれば筆者のレベルとしてはベストです。

 

こうした書籍やウェブの記事を頭の中で通訳するイメージで読んでゆきます。その過程で、知らない言葉、即座には通訳できないフレーズやコンテンツはすぐに調べ、直接文献に書き込みながら読み進めます。トランスレーションリーディングと勝手に命名していますが、要は無言でサイトトランスレーションをするようなイメージです。最後まで読んだところで最初のページまで戻り、書き込んだ言葉を自作の用語集としてExcellなどに転記して整理しつつもう一度流し読みします。

 

ここまで完了したら、ここで初めて実際に通訳する資料や論文の勉強に取り掛かります。手元の自作の用語集には無い言葉やコンテンツは徹底的に調べ、自作の資料を補填しつつ、出来得る限り内容の理解を深めます。

 

ここまででほぼ1ヶ月ほどの期間が掛かります。学術的な案件でなくても、これまでに経験の無いテーマについては同様の手順を踏んで準備します。筆者が一番重要視しているのは、仮にどんなに稚拙な通訳になってしまったとしても、「自分の頭で理解できている内容を自分の言葉で話す」という意識を忘れないことです。

 

一般に、通訳者はスピーカーと同程度のトピックに関する知識を持って臨むことが理想的であると言われます。筆者にとってこれはほとんど不可能です。その分野で長年に渡って研究を続けてきたトップクラスの研究者と、たかだか1ヶ月程度の期間で、中高生レベルから這い上がってきた者が同程度の知識レベルのはずがありません。しかし、たとえ100%のレベルで太刀打ち出来無くとも、30%でも、20%でも、1%でも近づくことを目指します。

 

筆者の場合、こうした高密度の案件は年に数件ではありますが、そのたびにこのような濃い1ヶ月を過ごすことになります。今年は状況が状況ですので機会が無さそうですが、それはそれでちょっと寂しい気がします。初めて挑む神聖なる霊峰を前にして身を引き締め、頂上を極めては達成感に浸る登山家のような心境でしょうか。もちろん年に何十件とこのような仕事をされていらっしゃる通訳者の皆さんからすれば「何を大袈裟な」ということになるとは思いますが。

 

今月はこのへんで。まだまだ大変な時期は続きます。明日も元気に頑張りましょう。
ごきげんよう。

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