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石黒弓美子先生のコラム 会議通訳・NHK放送通訳者
USC(南カリフォルニア大学)米語音声学特別講座終了。UCLA(カリフォルニア大学ロサンジェルス校)言語学科卒業。ISS同時通訳コース卒業。國學院大學修士号取得(宗教学)。NHK-Gmedia国際研修室講師・コーディネーター。東京外国語大学等で非常勤講師。発音矯正にも力を入れつつ通訳者の養成に携わる。共著:『放送通訳の世界』(アルク)、『改訂新版通訳教本 英語通訳への道』(大修館書店)、『英語リスニング・クリニック』『最強の英語リスニング・ドリル』『英語スピーキング・クリニック』(以上 研究社)など。

第10回:もう一つの通訳 -本物の「包摂性」とは何か? How much do we really know about inclusiveness?

9月1日から3日まで、東京で行われた第3回アジア太平洋CBR会議で通訳をする機会を得ました。CBRとはcommunity-based rehabilitationの略です。ここでいうリハビリテーションとは、障害者のリハビリテーションの事です。リハビリテーションというとかつては、機能回復というようなイメージがあったように思いますが、今では、もっと広い意味で捉えられているようです。すなわち、身体的リハビリを含む健康増進、教育、生計維持のためのスキル開発から、賃金雇用の創出、社会参加を可能にする支援、エンパワーメント等々、様々な分野に及んでいます。

今回の会議には、この概念を更に進めて、「CBRからCBID= Community-based inclusive developmentへ」という副題がついていました。世界が今後開発を進めていくにあたっては、障害のあるなし、老若男女の別なく、すべての人を包摂includeする社会開発を進めて行こうという概念です。

2006年12月に国連総会で採択され、2008年5月に発効した国連障害者権利条約 Convention on the Rights of Persons with Disabilitiesで、障害のある人たちの権利が国際条約で認知されてからまだ10年もたっていませんが、accessibilityやuniversal designなどという言葉や行動に見るように、障害のある人たちの社会参加participationを促進する為のさまざまな努力が積み重ねられてきました。もちろん十分とは言えない状態だとは思いますが、障害のある人も、同じ社会の一員であり、社会貢献ができる存在だと、その尊厳の尊重がうたわれるようになりました。

Community-based(地域社会ベースの)という概念も、かつては施設に隔離されたような生活を送っていた障害者が、地域社会で暮らせるように支援をしようという方向に代わってきたことから生まれたものでしょう。障害者にやさしい社会は、子供や高齢者を含む、すべての人にやさしい社会であるとの思想も、少しずつながら浸透してきました。

一方で、MDGs=Millennium Development Goals国連ミレニアム開発目標の目標達成年度である2015年以降の新たな開発目標SDGs=Sustainable Development Goalsの設定に、ここ数年、世界中の様々なグループが活発に活動してきましたが、障害のある人たちのグループも同様でした。国連を中心に今後の世界の方向性を決定するpost-2015 agendaに、自分たちの主張を反映させようと運動してきました。その意味でも、9月の国連総会の直前に開かれた第3回アジア太平洋CBR会議は重要な意味を持っていたのだと思います。

その会議で、私たち通訳者は、「language interpreters言語通訳者」と呼ばれました。こう呼ばれるのは、言語通訳を使わない聴覚や視覚に障害のある人たちをも含む会議だからです。会議では、英語と日本語、フランス語やロシア語など複数の言語が使われる国際会議でリレー通訳が行われるように、つまり、原発言から一度別の言語に通訳され、更にその言語から、第3、第4の言語へと通訳されるように、リレー通訳が行われました。ただし、そのリレーは、言語通訳と日本語手話や国際手話への通訳、要約筆記や英語のトランスクリプションへというリレー通訳です。要約筆記とは、聴覚障害者のために、音声を文字に直していく仕事です。かつては、2人1チームで、手書きで透明なセルにマジックのようなペンで書き出し、それをスクリーンに映し出していましたが、最近はコンピューターで文字を打ち出すようになりました。ただ日本語の筆記は、英語と違って漢字変換が必要なため、その分時間がかかるので、英語のようにすべての語を書きだすのではなく、筆記者が原発言を要約して筆記していくのです。

例えば、我々言語通訳者が英語から日本語に通訳すると、日本語手話通訳者がイヤフォンでその通訳を聞いて手話に直し、あるいは要約筆記者が内容を要約して文字に直していきます。原発言が日本語の場合は、言語通訳者の英語への通訳を、海を超えたアメリカで、スカイプなどの手段を使って聞いている顔の見えないtranscriber筆記者が、どんどんと英語に打ち出し、それが会場のスクリーンに映し出されていきました。自分の通訳が手話に、また日本語や英語の文字にいっせいに直されていくその光景には、一種の感動すら覚えました。

この会場に、日本語手話の他、国際手話も言語通訳もこなしてしまう有能な通訳者がいました。情熱と行動力あふれる人で、主催者の事務方でも何でもないにもかかわらず、徹夜で英語のスピーチ原稿や、パワポの資料に日本語訳をつけてしまうという活動家でした。普段は、手話通訳者への指導もしておられるという人でもありました。

その人の話を聞いて驚いたのが、手話通訳や要約筆記者の時給は、熟練を要しない仕事のアルバイトに毛が生えた程度だということです(というのは、金額を書くのがはばかられるので筆者が選んだ表現ですが)。ほぼボランティア・ワークであるとは聞いていましたが、会議での仕事だからといっても、スーツも買いそろえることができないほどのお手当だということでした。

もう何年も前から学術研究の分野では、言語通訳だけではなく、手話通訳なども「通訳」として認知されていますが、まだ、日本の社会では、手話通訳や要約筆記は、ボランティアの仕事と見られているようなのです。この有能なマルチリンガルの通訳者は、手話通訳の質を高めるために一所懸命でしたが、正当な報酬が支払われず、個人のボランティア精神に頼っているのでは、相当な熱意のある献身的な人であっても、質の向上は容易なことではありません。

障害のある人たちの社会参加を助け、だれもが包摂されるinclusiveな社会の構築を目指すのであれば、手話通訳や要約筆記というもう一つの通訳の仕事も、プロの仕事として正当に評価しなければならないのではないかと、強く感じた会議でした。しかし、そのinclusiveな社会の実現は、政府からでも、国連からでもなく、私たち一人ひとりから始まるのではないかとも思います。一人でも多くの人が、もう一つの通訳者の存在を認知することが手始めでしょう。こんな会議の言語通訳を担当できたことは、通訳者冥利に尽きる幸運でした。

第18回:大切にしたいことばの力・言語コミュニケーション– Power of words

第17回:遺伝子と文化 Genes and Culture

第16回:聞く人の身になって-「日本人はあらゆるものに神を見る」 We see gods in everything..... with a small letter “g” –

第15回:「読める漢字」 vs 「書ける漢字」 How many Kanji characters can you read? And how many can you write?

第14回:つきない勉強 The more you learn, the more you realized you have more to learn.

第13回:七転び八起き ~Difficult child 難しい子!? 多様性の一つ?~

第12回:「女性が輝く社会 A Society where women shine??」――課題は多いけれど

第11回:「どんなお気持ちでしたか?」 ~How did you feel? What did you think? しか出てこないもどかしさ。

第10回:もう一つの通訳 -本物の「包摂性」とは何か? How much do we really know about inclusiveness?

第9回:英日通訳「言葉に引っかからずに意味を取る」とは

第8回:DLS Dynamic Listening and Speaking 日英通訳力強化のために

第7回:Quick Response Exerciseとlexical approachの勧め ~自動的で速やかな英語のアウトプットのために、単語ではなく句や文でアウトプット~

第6回:順送りの情報処理 Slash reading

第5回:Listening comprehension 本当のところ、どこまで聞取れていますか

第4回:“Inaudible”??? 「聞取り不可能」

第3回:「I started to walk in electronics in 2006???」 母音再確認の勧め

第2回:Who is “’TAni-sensei”? 英語の聞き取りと発音

第1回:背中を押し続けてくれた「継続は力なり!」

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