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津村建一郎先生

津村建一郎先生のコラム 『Every cloud has a silver lining』 東京理科大学工学部修士課程修了(経営工学修士)後、およそ30年にわたり外資系製薬メーカーにて新薬の臨床開発業務(統計解析を含む)に携わる。2009年にフリーランスとして独立し、医薬翻訳業務や、Medical writing(治験関連、承認申請関連、医学論文、WEB記事等)、翻訳スクール講師、医薬品開発に関するコンサルタント等の実務経験を多数有する。

第4回:記憶のメカニズム

今回は、記憶とはなにか?記憶を残すにはどうすれば良いのか?について考えてみたいと思います。

翻訳を行っている時についさっき調べた同じ語句やフレーズをまた調べたり、決まり文句や単語をなかなか覚えられなかったり、さらに、仕上がった納品(翻訳)物を散々見直して提出しているのに、チェッカーさんから簡単な誤字脱字を指摘される・・・と言うような経験はありませんか?これらはいずれも私達の「記憶(memory)」に関係しています。

今回は、この記憶について色々と考えてみたいと思います。

1. 脳と記憶

いわゆる「記憶」というものは、脳に電気信号として蓄積されます。ご存じの様に、電気は電子が高速で移動することによって生じますが、そのためには移動する経路(いわゆる電線)と電子が発生するきっかけとなるパルス(いわゆるスイッチ)が必要です。

人体の中で、電線に相当するものは神経(nerve)であり、スイッチに相当するものは五感(視覚、聴覚、触覚、嗅覚そして味覚)です。眼や耳や舌など何かを感じるとそれがスイッチとなってパルスが発生し、そのパルスが電線である末梢神経(peripheral nerve)を伝わって脳、即ち、中枢神経(central nerve)に届きます。

脳に届いたパルス=情報が記憶になるには 符号化・貯蔵・検索 という3つの過程を経る必要があることが脳科学の分野で解明されています。理解を簡単にするため、この過程をパソコン(コンピュータ)を例に挙げて説明しましょう。

● 符号化
パソコンのキーボードをたたくと、たたいたキーに対応したデジタル信号=パルスが発生します。脳の中でも同じ処理が行われており、パルス=情報が脳(パソコンのCPU=演算処理装置に相当)に届くと、その情報が「符号化(encode)」されます。具体的には情報にタグを付けるのですが、このタグはいわゆるKey wordsと思ってください。つまり、その情報=パルスが発生した場所(感覚器官)・日時・持続時間・情景・出来事などです。これらのKey wordsは記憶を検索する際に役立ちます。

● 貯蔵
パソコンではCPU(演算処理装置)で符号化した信号を、記憶装置やディスクに貯蔵します。脳の中も同じで、符号化された情報を貯蔵します。これがいわゆる記憶になるわけですが、ここでもタグが付けられます。そのタグは 間隔記憶・短期記憶・長期記憶 の3種類です。間隔記憶の保持時間は、視覚が数百ミリ秒、聴覚が数秒で、短期記憶については15~30秒、長期記憶はほぼ永久と言われています。単語の意味などが長期記憶になれば、ほぼ一生忘れないことになります。

全ての記憶が長期記憶になればいいのに・・・と思われるかもしれませんが、長期記憶は脳にとってかなりの負担になっていますので、昨日のラーメン屋で見たメニューまでも全て長期記憶にしてしまうと脳はたちまちパンクしてしまいます。タグを付けて記憶の差別化を行うことで、私たちは脳を無意識に守っているのです。

● 検索
パソコンで例えれば、知らない英単語の意味をインターネットで調べる感じです。脳の中も同じで、貯蔵されている膨大な記憶から必要な情報を引き出すために、タグ付けされているKey wordsで検索するのです。この検索が行われる際に神経ネットワークが出来るのですが、出来たてのネットワークはいたって頼りないものです。その後 検索⇒引き出し が頻繁に行われると、その情報が通過する電線=神経ネットワークは次第に太くなり、確固たる記憶として定着します。逆に言いますと、いくら記憶に貯蔵されていても、検索の神経ネットワークが出来ていなければ、その記憶は一生使われることはないのです。この様に、記憶は検索の神経ネットワークが出来ることで初めて役立ちます。

英単語や翻訳の技能、慣用フレーズなどを習得するには、検索の神経ネットワークを太くする必要があります。つまり、覚えた単語や技能を意識して繰り返し使う=検索することが記憶を確かなものにする早道なのです。

2. 脳の忘却機能

パソコンに記憶された情報は、物理的に破壊されない限り半永久的に残っています(パソコンの「消去」命令でデータを消しても、電気的には記憶装置内に残っています)。コンピュータには忘却という機能がありません。

脳とコンピュータの最大の違いは、脳に「忘却」という機能があることです。これも脳の機能を守るために無意識に行われている行為です。この忘却機能については「エビングハウスの忘却曲線」と言うものが知られています。

この曲線は心理学者のヘルマン・エビングハウスが行った研究によって導かれた、人間の脳の「忘れるしくみ」を表したものです。

エビングハウスの忘却曲線

この研究の結果、記憶の保持率が20分後には58%、一時間後には44%、一日後には26%、31日後には21%まで低下することが分かりました。記憶直後から1日目までがかなりの勾配で、それ以降がほぼ水平状態なる曲線になります。この曲線が記憶の保持率(逆に言えばどれだけ忘れるか)を示しています。

この曲線は私達に色々なことを教えてくれます。例えば、英単語を覚えるには最初に覚えてから1時間後に1回目の復習をし、翌日(1日後)に2回目の復習をするのが効果的だと思われます。ですので、学校で受けた授業や語学スクールで学んだ内容などはその日の内、遅くとも翌日に復習すると、確かな記憶として残りやすいと言うことです。

一方、完成した納品物のチェックには、完成直後の記憶を一度払拭することが大事です。完成した直後(1時間以内)に見直しをしても、直後記憶が邪魔をして誤字脱字や誤訳はなかなか発見できません。そこで、翌日(1日後)か望ましくは2~3日後に見直しをすると、直後記憶がほぼ消失していますので、誤字脱字や誤訳などが見つけやすい言うことです。

習ったことの復習や納品物のチェックをする際には見直しのタイミングが大事です。この「エビングハウスの忘却曲線」を思い出して、効率の良い作業をしましょう。

3. 音読は王道の記憶術

脳の中で長期記憶に強く関与している組織は「海馬(hippocampus)」と「側頭葉(temporal lobe)」です。

海馬は大脳辺縁系(limbic cortex)にある、タツノオトシゴのような形をした器官です(下図の左画像)。海馬部分が損傷した患者の研究から、海馬は長期記憶に密接に関係していることが分かりました。

側頭葉(下図の右画像の緑色領域)は聴覚を処理する聴覚野でもあり、音声の他にも文字の意味にも関わっています。額の辺りにある前頭葉は(前頭葉は記憶をしない)と連携して記憶を担ってもいます。

海馬はタツノオトシゴ(Hippocampus coronatus)のような形をしていますが、脳の中心部分から側頭葉にむかって触覚のように伸びています。つまり、海馬は耳に近いところまで伸びています。これは海馬で記憶した情報を側頭葉に送信しやすくするためと言われています。

音読は王道の記憶術と言われていますが、これには脳科学的な根拠があります。なぜなら、側頭葉は海馬と連携していて、なおかつ聴覚と関係しています。音読をすると、側頭葉が活性化し、それに伴って長期記憶に繋がる海馬を活性化させます。側頭葉を理解することで、効率的な暗記が実現するということです。特に語学を勉強する方は、ぜひ覚えておいてください。

英語のような語学の勉強では音読による学習が効果を発揮することが解っています。テキストを熱心に音読することで、単語や熟語も自然に記憶され、文法への理解も深まります。これは、耳からの音刺激が側頭葉と海馬を刺激するからです。翻訳の際も、作業を始める前に原文を複数回音読すると、文章全体の理解が深まります。同様に、完成した翻訳文も複数回音読すると、意味の通じないところや矛盾している箇所がよく解ります。音読は脳科学に裏打ちされた科学的な学習法なのです。

4. 意味記憶とエピソード記憶

長期記憶には2種類あります。1つは「手続き的記憶」と言われるもので、もう1つが「宣言的記憶」となります。

手続き的記憶は身体で覚える記憶のことで、代表的なのが自転車の運転や縄跳びです。自転車の運転や縄跳びは長いことしていなくても案外できるもので、その理由は脳がそれらのやり方を手続きとして永く記憶しているおかげです。「手続き的記憶」は理屈ではなく、無意識のいわば無条件反射的なものです。

一方、「宣言的記憶」は――僕の名前は山田太郎で、東京に住んでいます。--的な記憶で、ある意味理屈的・知識的に記憶しているものです。宣言的記憶はさらに2種類に分かれていて、エピソード記憶と意味記憶と呼ばれています。

エピソード記憶(episodic memory)は、その名のとおりエピソード(出来事)に結びついた記憶です。脳科学的には女性の方が得意な記憶法と言われていて、恋人同士の会話などで女性が「あなたが初めて私をナンパしたのがこの喫茶店のこの席よ!」と言い、男性の方が「そうだっけ~」と受け答える場面での女性の方の記憶がこれにあたります。

意味記憶(semantic memory)は、常識や知識、情報としての記憶で脳科学的には男性の方が得意な記憶法と言われています。先の恋人同士の会話で男性が「コーヒーは熱い方が美味しいので、コーヒーカップは冷めないように寸胴型で厚く作ってあるんだ。でも、紅茶は少しぬるい方が美味しいので、ティーカップは冷めやすい様に口広で薄く作ってあるんだよ!」というと、女性が「へぇ~、あなたは物知りなのね。」と受け答える場面での男性の方の記憶がこれにあたります。

記憶として比較的定着しやすいのは前者のエピソード記憶の方だと言われていますので、覚えたいことになにか物語(出来事)を結びつけると記憶が定着しやすくなります。

受験勉強の時、化学の元素記号の周期表を覚えるのに「水兵リーベBackの船・・・」とストーリー付けして覚えたり、数学のルート5;√5≒2.2360679(富士山麓オオム鳴く・・・)と語呂合わせして覚えたりしましたが、歳を取った今でも諳んじることができます。それは、このエピソード記憶によるものです。

以上の様に、記憶のメカニズムを正しく理解し、それを応用することで、翻訳作業や様々なオフィス業務、さらには受験勉強やお子さんの学校での勉強などが効率よく進む様になるのではないでしょうか。是非お役立てください。

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