ホーム  >  Tips/コラム:プロの視点 ー 通訳者・翻訳者コラム  >  村瀬隆宗のプロの視点 第15回:Middle out:トップダウンでもボトムアップでもなく

Tips/コラム

Tips/コラム

USEFUL INFO

プロの視点 ー 通訳者・翻訳者コラム


『LEARN & PERFORM!』 翻訳道(みち)へようこそ 村瀬隆宗

第15回

Middle out:トップダウンでもボトムアップでもなく

このコラムを書くとき、もちろん「有益な情報を提供したい」と考えていますが、それを「できるだけ多くの方にお届けしたい」とも思っています。今回は特に後者を意識してテーマを選んでみました。と言っても、旬なホットワードを取り上げたわけではなく、青田買いをしたつもりです。「ミドルアウト」という言葉はまだあまり目や耳にしないものの、近い将来に大化けし、SNSでもトレンドになると目論んでいます。

  

ただし、米国ではすでにhousehold phrase(誰もが知る言葉)になっています。それに一役買ったのがバイデン大統領です。就任以来、経済政策について語る中で “from the bottom up, middle out” というフレーズを150回以上も繰り返してきました。「低所得層の押し上げと中間層の盛り上げ」とでも訳せるでしょうか。

  

この場合のmiddle outの対極は、top downではなくtrickle down(トリクルダウン)です。バブリーな結婚式やホストクラブでおなじみの「シャンパンタワー」というのがありますよね。あれをイメージしてみてください。一番上から注いだシャンパンは、グラスからあふれ出て下のグラスを満たし、さらにあふれ出て下へ下へと流れ落ちます。

  

経済もこれと同じ。政府が民間の自由競争を邪魔しないようにし、それに勝って富を手にした大企業やその幹部の税負担も軽くする。上層の懐が潤えば、あふれたお金は投資や消費という形で下へ下へと流れ、やがて庶民も潤う。みんなハッピーになれる。誰もが、そう信じてきました。なぜなら、仕組みを直観的に理解しやすいから。大学も、基本そう教えてきました。主流派経済学は「乗数効果」など、トリクルダウンを前提とした概念をベースにしているのです。

  

しかし、バイデン大統領は言います。この30年間を振り返ってみてくださいと。一流企業のエグゼクティブが何百万ドルと稼いで富を蓄積する一方で、工場労働者の暮らしぶりは良くなりましたか?そうした状況への不満につけ入ったのが、トランプ氏だったのでは?シャンパンタワーの上のほうのグラスは、優勝力士が飲み干す大盃ほど巨大で、いくらシャンパンを注いでも下におこぼれなど回って来ないのだと。

  

そろそろ目を覚ましてください。トリクルダウンなど虚構です。経済を回しているのはトップではない。経済の中心は富裕層ではない。大多数を占めるミドル、すなわち中間所得層が、経済を支えている。その最大勢力がたくさんモノやサービスを買うことで、企業は潤い、繁栄が広がる。

  

ところが、その中間層はすっかり自信をなくしてしまった。50年前は親の世代より自分の世代、自分の世代より子供の世代のほうが裕福になると信じることができたが、今はそうは思えない。これはひとえに、自由競争を信奉し、「小さな政府」を善とし、富裕層の負担を減らすことに重点を置いてきた結果ではないか。

  

だから、カギは中間所得層の再興 — その需要を盛り上げ(ミドルアウト)、同時に低所得層を支援して中間層に押し上げる(ボトムアップ)政策こそが、経済を良くする。

  

これが、バイデン大統領をはじめとする民主党の主張です。つまり、「先」であるべきは、トップではなくミドルだと。トップから落とすのではなく、ミドルから上下に繁栄を広げる、すなわちmiddle outこそが、みんなハッピーへの第一歩なのだと。

  

このbottom up, middle outの方針はAmerican Rescue Plan(米国救済計画法)や CHIPS(半導体法)などの経済政策に反映され、今のところ奏功しているようです。

  

The Washington Postの記事によると、2021年の名目賃金上昇率は低所得層が7.7%、中間所得層が4.8%、高所得層が3.6%と、下ほど伸びが大きく、2022年も所得下位1割の層が10%弱となるなど、その傾向は続いています。また、バイデン政権下で創出された1150万人分の雇用のうち、81%をブルーカラー製造職と非管理サービス職が占めています。

  

ひるがえって、ここ日本。岸田政権も「分厚い中間層」を当初から掲げていましたが、まだ具体的な施策として見えてきません。むしろ、われわれフリーランスに影響する「インボイス制度」など、逆行している気も…

  

今後に期待したいところですが、米国が近々訪れると予想されている景気後退を回避するか軟着陸に成功し、前大統領の掲げたMAGA(Make America Great Again)を実現する方向へ進めば、日本も追従し、ひいては「ミドルアウト」のフレーズが注目され、この記事のアクセス数が急増することになるかもしれません。

  

middle outは他の文脈でtop downとbottom upの中庸的概念としても使われています。たとえば企業経営、そしてDXなどに向けたシステム設計では、全体像を把握しながら(トップダウン)現場の問題点もしっかり吸収し(ボトムアップ)、その仕組みを上下に広げながら意思決定を行っていくというアプローチとしてミドルアウトが注目されつつあります(特に経営の文脈では「ミドルアップダウン」とも呼ばれています)。

 

参考文献

Rubin, J. (2023, February 13) Biden is succeeding in building the economy from ‘bottom up, middle out’. The Washington Post.
https://www.washingtonpost.com/opinions/2023/02/13/biden-economy-wages-increasing-inflation/

Cohen, P. (2021, May 2) Biden’s Proposals Aim to Give Sturdier Support to the Middle Class. The New York Times.
https://www.nytimes.com/2021/05/02/business/economy/middle-class-biden-economy.html

村瀬隆宗 慶応義塾大学商学部卒業。フリーランス翻訳者、アイ・エス・エス・インスティテュート 英語翻訳コース講師。 経済・金融とスポーツを中心に活躍中。金融・経済では、各業界の証券銘柄レポート、投資情報サイト、金融雑誌やマーケティング資料、 IRなどの翻訳に長年携わっている。スポーツは特にサッカーが得意分野。さらに、映画・ドラマ、ドキュメンタリーなどの映像コンテンツ、 出版へと翻訳分野の垣根を超えてマルチに対応力を発揮。また、通訳ガイドも守備範囲。家族4人と1匹のワンちゃんを支える大黒柱としてのプロ翻訳者生活は既に20年以上。

村瀬隆宗のプロの視点のアーカイブ

第28回:Hallucination:生成AIとの付き合い方

第27回:opportunity:ただの「機会」ではない

第26回:Insight:洞察?インサイト?訳し方を考える

第25回:Share:provideやgiveより使われがちな理由

第24回:Vocabulary:翻訳者は通訳者ほど語彙力を求められない?

第23回:Relive:「追体験」ってなに?

第22回:Invoice:なぜ「インボイス制度」というのか

第21回:Excuseflation:値上げの理由は単なる口実か

第20回:ChatGPTその2:翻訳者の生成AI活用法(翻訳以外)

第19回:ChatGPTその1:AIに「真の翻訳」ができない理由

第18回:Serendipity:英語を書き続けるために偶然の出会いを

第17回:SatisfactionとGratification:翻訳業の「タイパ」を考える

第16回:No one knows me:翻訳と通訳ガイド、二刀流の苦悩

第15回:Middle out:トップダウンでもボトムアップでもなく

第14回:Resolution:まだまだ夢見る50代のライティング上達への道

第13回:Bird’s eye view:翻訳者はピクシーを目指すべき

第12回:2つのquit:働き方改革と責任追及

第11回:Freelance と “Freeter”:違いを改めて考えてみる

第10回:BetrayとBelie:エリザベス女王の裏切り?

第9回:Super solo culture:おひとりさま文化と翻訳者のme time

第8回:Commitment:行動の約束

第7回:Mis/Dis/Mal-information:情報を知識にするために

第6回:Anecdote:「逸話」ではニュアンスを出せません

第5回:Meta:メタ選手権で優勝しちゃいました

第4回:For〜木を見るために森を見よう〜

第3回:Trade-off〜満点の訳文は存在しない〜

第2回:Translate〜翻訳者は翻訳するべからず?〜

第1回:Principle〜翻訳の三原則とは〜

Copyright(C) ISS, INC. All Rights Reserved.