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プロの視点 ー 通訳者・翻訳者コラム


『LEARN & PERFORM!』 翻訳道(みち)へようこそ 村瀬隆宗

第16回

No one knows me:翻訳と通訳ガイド、二刀流の苦悩

3月は講師をしている翻訳学校の講義がないため、少しのんびりするつもりでした。まず、2月の最終授業の翌日から2泊3日の「打ち上げ」旅(沖縄)を予定。ところが、想定とまったく違う状況になっています。

 

今年に入り、3年間コロナで遠ざかっていた通訳ガイドの仕事再開に向けて準備を始めました。そして通訳ガイドとしては駆け出しの私にも、2月に入ると仕事の問い合わせが。入国規制緩和後最初の春ということで、かなり大勢のインバウンド観光客が来日されるようです。

 

以前担当したツアーからのご指名で、ツアーリーダーの方に再会できるということもあって喜んでお引き受けした3日間の30人ツアーを含め、3月についても2件の予約が入りました。

  

これを受けて、沖縄旅行のテーマも骨休めから「ガイド用アウトプットフレーズ&文総復習」に変更。ガイド中に言おうとしてさっと出てこなかったフレーズ等を書き溜めたスプレッドシートを、音声対応の暗記用アプリに入力しました。

  

エメラルドのビーチ沿いを歩きながらこれを聞き、「奥から詰めてお座りください」とアプリから流れたらFill the seats from the rear と、答えを言われるまでに発声します。それがスムーズにできたらチェックマークを入れ、次の周はさっと出てこなかったものだけ再テスト。このプロセスを全部チェック済みになるまで繰り返します。

  

普段も、愛犬との散歩中に翻訳用として同じことをしています。マスクは着用ルールが緩和されましたが、「ひとりでぶつぶつ言っている」と思われずに済むというメリットもありました。

  

勝連城(グスク)へ向かう途中に立ち寄った、朱色の屋根瓦を持つ沖縄らしい神社で、翻訳の顧客から電話が。事前に打診があり予定はしていたのですが、想定を上回る膨大な量の依頼でした。

  

3月中旬まで、という希望納期を、電話の外では温暖でのんびりした空気が流れる中での交渉の末に3月中ということでご了承いただきました。「なんくるないさー」と普天間神社の社殿を守るシーサーに元気づけられながらも、しばらく呆然とたたずみます。

  

他の顧客からの仕事もすでに入っていて、翻訳だけだったとしても3月は休めないほど忙しくなることが確定。それに加えて合計5日間のツアーガイド。これだけなら何とかいけそうな気がするものの、3年間のブランクを経てのガイド復帰に向けた準備がまだまだ必要です。

  

しばし忘れて旅を楽しんだあと、魔の3月に入ります。不安解消のためにガイドの準備に時間をかけるほど、翻訳の状況はますます厳しくなる。ジレンマで落ち着かない気持ちのまま大量の翻訳をこなすという、この感覚。作業中、ふと「浜離宮で花の名前を聞かれたらどうしよう」と思うと、いつの間にか調べ始めて翻訳が中断することも。

  

こうした状況は、顧客には理解してもらえないものです。そもそもフリーランスはだいたい複数の顧客を抱えていて、お客様のほうからすれば他の顧客との状況は見えません。違う業界ならなおさらです。通訳ガイドのエージェントから見れば「今月はまだ5日しか予定のない余裕のあるガイド」ですし、翻訳顧客からすればガイド復帰への準備や不安など知ったことではないでしょう。

  

翻訳仲間、ガイド仲間とも、それぞれの大変さは共有できても、垣根を越えた大変さは分かり合えるものではありません。そこで、誰かにわかっていただけないかな、ということで今回のコラムを書くことにしたわけです。いわば誰にも言えない愚痴だったわけですが、執筆のために考えているうちに分かってきました。そんなの自分だけではない、ということが。

  

たとえば翻訳専業だとしても、家事や家庭の事情を抱えながら仕事をしている方は大勢いるわけで、そう考えているうちに「大変なのはみんな同じか、頑張るしかないよね」という前向きな気持ちになることができました。

  

そしてガイド再デビューの日。思ったように英語が出てこず(出てきても、連日のフォーマルな日英翻訳の影響もあり、アジアのゲストには理解しにくい用語が出てきてしまう)、雰囲気を壊さないように楽しそうにつくろいながらも、帰路はうなだれて19時に帰宅。食事と明日の持ち物準備後、20時に就寝。2時に起床し、6時まで翻訳、7時まで今日の旅程を再確認。シャワーを浴びて8時の電車で訪問カ所のガイドポイントや情報を再確認しながらゲストのホテルへ。

  

これを3日間繰り返しているうちに、ゲストの明るさにも助けられて最初に比べるとうまく話せるようになりました。家にこもって仕事をしていたコロナ禍中には考えられなかった外に出ての仕事も、やってみれば意外とやれるもんだなと感じています。

  

翻訳と通訳ガイド。かたや、こもって一人で熟考する仕事、かたや、外に出て人と触れ合いながら素早くレスポンスする仕事。同じ英語を使う仕事でも対極ではありますが、長期的にみると、非常にバランスが取れていいのではないかと思っています。

  

村瀬隆宗 慶応義塾大学商学部卒業。フリーランス翻訳者、アイ・エス・エス・インスティテュート 英語翻訳コース講師。 経済・金融とスポーツを中心に活躍中。金融・経済では、各業界の証券銘柄レポート、投資情報サイト、金融雑誌やマーケティング資料、 IRなどの翻訳に長年携わっている。スポーツは特にサッカーが得意分野。さらに、映画・ドラマ、ドキュメンタリーなどの映像コンテンツ、 出版へと翻訳分野の垣根を超えてマルチに対応力を発揮。また、通訳ガイドも守備範囲。家族4人と1匹のワンちゃんを支える大黒柱としてのプロ翻訳者生活は既に20年以上。

村瀬隆宗のプロの視点のアーカイブ

第30回:Another Version of Me:違う「世界線」の自分

第29回:Inflection Point:いつか翻訳が通訳に繋がると信じて

第28回:Hallucination:生成AIとの付き合い方

第27回:opportunity:ただの「機会」ではない

第26回:Insight:洞察?インサイト?訳し方を考える

第25回:Share:provideやgiveより使われがちな理由

第24回:Vocabulary:翻訳者は通訳者ほど語彙力を求められない?

第23回:Relive:「追体験」ってなに?

第22回:Invoice:なぜ「インボイス制度」というのか

第21回:Excuseflation:値上げの理由は単なる口実か

第20回:ChatGPTその2:翻訳者の生成AI活用法(翻訳以外)

第19回:ChatGPTその1:AIに「真の翻訳」ができない理由

第18回:Serendipity:英語を書き続けるために偶然の出会いを

第17回:SatisfactionとGratification:翻訳業の「タイパ」を考える

第16回:No one knows me:翻訳と通訳ガイド、二刀流の苦悩

第15回:Middle out:トップダウンでもボトムアップでもなく

第14回:Resolution:まだまだ夢見る50代のライティング上達への道

第13回:Bird’s eye view:翻訳者はピクシーを目指すべき

第12回:2つのquit:働き方改革と責任追及

第11回:Freelance と “Freeter”:違いを改めて考えてみる

第10回:BetrayとBelie:エリザベス女王の裏切り?

第9回:Super solo culture:おひとりさま文化と翻訳者のme time

第8回:Commitment:行動の約束

第7回:Mis/Dis/Mal-information:情報を知識にするために

第6回:Anecdote:「逸話」ではニュアンスを出せません

第5回:Meta:メタ選手権で優勝しちゃいました

第4回:For〜木を見るために森を見よう〜

第3回:Trade-off〜満点の訳文は存在しない〜

第2回:Translate〜翻訳者は翻訳するべからず?〜

第1回:Principle〜翻訳の三原則とは〜

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