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プロ通訳者・翻訳者コラム
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成田あゆみ先生のコラム 『実務翻訳のあれこれ』 1970年東京生まれ。英日翻訳者、英語講師。5~9歳までブルガリア在住。一橋大大学院中退後、アイ・エス・エス通訳研修センター(現アイ・エス・エス・インスティテュート)翻訳コース本科、社内翻訳者を経て、現在はフリーランス翻訳者。英日実務翻訳、特に研修マニュアル、PR関係、契約書、論文、プレスリリース等を主な分野とする。また、アイ・エス・エス・インスティテュートおよび大学受験予備校で講師を務める。
第35回(最終回):翻訳は何に例えられるか?
みなさまは翻訳あるいは翻訳者を何に例えますか?
翻訳者が書いたものを読むと、翻訳者は俳優や演奏家に例えられることが多いようです。これは至極順当な比喩と言いますか、元となる脚本や楽譜(=原文)があり、それを自分なりに解釈しながら再現するという点で、翻訳と演技や演奏は大いに共通しています。
今回は、私が個人的に気に入っている、翻訳に関するアクロバティックな(?)比喩をご紹介します。
☆ ☆ ☆
(1)器とその破片
ベンヤミンという哲学者は、原文と訳文を、器の破片に例えています。
「ひとつひとつの破片は同じ形ではないものの、もとの器(=原文の内容)を表すものでなければならない」という意味だと私はとらえています。
ここでベンヤミンは聖書の翻訳を念頭に置いていますが、この比喩は実務翻訳にもヒントを与えている気がします。
ひとつの器の破片が組み合わせられるためには、二つの破片は微細な点にいたるまで合致しなければならないが、その二つが同じ形である必要はないように、翻訳は……愛をこめて微細な細部に至るまで原作の言い方を翻訳の言語のなかに形成し、そうすることによってその二つが、ひとつの器の破片のように、ひとつのより大いなる言語の破片として認識されるのでなければならない。
----ヴァルター・ベンヤミン「翻訳者の使命」
(2)硬貨
村上春樹は分かったような分からないような、でも何とも印象的な比喩で知られます。そのなかでも、翻訳を硬貨になぞらえるこの比喩は、翻訳を仕事にするようになってからより一層思い起こすようになりました。
僕は必要経費で買い込んだ二つの書類棚を机の両脇に置き、左側には未訳の、右側には翻訳済みの文書を積み重ねた。
文書の種類も依頼主も実に様々だった。ボール・ベアリングの耐圧性に関する「アメリカン・サイエンス」の記事、一九七二年度の全米カクテル・ブック、ウィリアム・スタイロンのエッセイから安全カミソリの説明文に至る様々な文書が「何月何日まで」という荷札を付けて左側の机に積み上げられ、しかるべき時の経過を経て右側に移った。そして一件が終了する度に親指の幅一本ほどのウィスキーが飲み干された。
考えるに付け加えることは何もない、というのが我々の如きランクにおける翻訳の優れた点である。左手に硬貨を持つ、パタンと右手にそれを重ねる、左手をどける、右手に硬貨が残る、それだけのことだ。
----村上春樹「1973年のピンボール」
改めて読むと、1970年代の翻訳会社の描写が妙にリアルなことに驚きます。
今の私にはこの比喩の“軽やかさ”が自分の課題だと感じます。ぱたんと硬貨を返すように軽やかに訳す。しかし「我々の如きランク」の翻訳者としては、これがとても難しいのです・・・。
(3)宙づり
以下は例えというよりは説明なのですが、個人的に非常に共鳴する翻訳者の定義です。
豊崎光一というフランス哲学者によるものです。
究極的には、私が翻訳者と呼ぶのは一個の職業であるよりも、世界を生きかつ見る一つの流儀です。それは根付くのを拒否すること、二つの中間に意志的にとどまることであります。……もし翻訳者の、翻訳という実践の倫理とでもいうべきものがあり得るとしたら、そう、私にとってそれはこの拒否、翻訳者がまったく自発的に引き受けるこの宙づりの状態の中にしかありません。
----豊崎光一「翻訳と/あるいは引用」
翻訳者は、日本語の端に立って中を眺めている、転校生のような感覚になることがよくあります。「中間に意志的にとどまる」「宙づりの状態」という言葉はこの、端から眺めている感覚を言い当てているように思います。
あるいは、翻訳者は子供に地図を描いて渡しておつかいに行かせ、電柱のかげから見守っている母親のようだとも思いますが(地図が訳文、子供が依頼者)、この、自分が直接当事者になれない感覚を指して「宙づり状態」と言っているような気もします。
(4)棒高跳び
文芸翻訳家の鴻巣友希子氏は『翻訳のココロ』というエッセイ集のなかで翻訳をさまざまに例えていますが、なかでも印象的なのが棒高跳びの例えです。こちらは硬貨の例えとは対照的に、教科書のようにきれいな比喩だと思います。
翻訳は棒高跳びに似ている。という気が少ししてきた。ふくまれる意味の伝達というバーを越せなければ、そこで敗退であり、だが、文中密かにくだぐだしい解釈をもりこんでバーより高く跳びすぎては、力の無駄づかいであるし、第一にみっともない。やはり、ほどよい余裕でクリアするのが美しい。
----鴻巣友季子「ホンヤク棒高跳び」p16-17
このエッセイが収められた「翻訳のココロ」のなかでは、柴田元幸様との対談があり、そのなかで翻訳を何にたとえるかという、そのまんまの話題が展開されています。
柴田 翻訳とはどういうものか、っていう喩えを見ると、そこにけっこう個性が出ると思って。鴻巣さんの言うことって人間的ですよ。あの、「あくを抜く」とかさ。
鴻巣 ああ。
柴田 まあ、「棒高跳び」でもそうなんですけど。そういう、人がやることに喩えますよね。
そういうのってあんまり実は聞いたことがないような気がする。少なくとも僕は翻訳というのは圧倒的にオーディオアンプだと思っているし、岸本佐知子さんはもっとわけのわかないことを言って、「甕(かめ)に水を張ってゴーンと叩くとこれが翻訳だ」なんて。なんかわけのわからない(笑)。……それは「あくを抜く」と本当は同じなんだけど、翻訳者岸本さんはそれを張った甕になるんですよね。
鴻巣 あ、その甕になることが翻訳だと。
柴田 そう、それでその甕が鳴るんですよね、叩かれて。それが訳すことなんだと。よくわかんないんだけど(笑)。でも僕も、アンプになるとかね、あんまり人間に喩えないんですよね。そこはけっこう大きな違いじゃないかなと思ったんですよね。
オーディオアンプも面白いですが、甕だなんて(笑)。
柴田元幸様の発言に触発され、わたしも翻訳を何かに例えてみたいと思います。
☆ ☆ ☆
・奴隷
翻訳者は奴隷だと私は思います。と言うときっと誤解されると思うので説明しますと、翻訳が奴隷労働だという意味ではありません。
そうではなく、「奴隷は主人の頭で考える」という意味において、翻訳者は奴隷なのです。
自分の思考がなくなって、ご主人様(=原文の書き手)の思考回路で訳すさまが奴隷だと思います。自虐的に解釈されることは百も承知なのですが、そこは意図していません。
ところで、古代ローマにおいて翻訳は奴隷の仕事だったそうです(出典不明)。
・小人の靴屋さん
人が休んでいる間に仕事し、翌朝には何事もなかったかのようにきれいに靴(=訳文)ができている。実務翻訳者は小人の靴屋さんだと言えます。
同じ路線の比喩として翻訳者は「打ち出の小槌」とも言えます(翻訳者が小槌、訳文は小判)。
どうやら私は「翻訳者は努力の跡を見せてはいけない」と思っているようです(?!)
・植木職人
翻訳者は植木職人、原文はぼさぼさの木、訳すのは木を刈り込む作業です。
原文は多義性を持つことがままありますが、翻訳においても同じように多義性を持たせようとすると、たいていは意味不明になります。
訳(=刈り込まれた状態)をつくるには、残すべき枝を判断し、落とすべき枝(けっこういい枝もあったりしますが)は思い切って切り落とす必要があります。
・海女さん
私が実際に訳していて最もよく想起するのは、海にもぐるイメージです。
翻訳者は「この書き手はなぜこう書いているのだろう?」と考え、書き手の心の奥深くまで分け入っていくことがあります。
たとえ契約書や論文のような硬い文章でも、書き手にその言葉を選ばせた心理がわからないと、訳語が出てこない場合はけっこうあります。
字面に表れない心理を探るとき、私は海を深く潜っていくような心境になります。海の底にあるひとつの石を拾いにいく作業の繰り返しが翻訳だと思います。
☆ ☆ ☆
最後だというのに、オチのない話を失礼いたしました。
3年間続いた連載も、今回で最終回となりました。
「読んでます」と言って下さる読者の方々、そしてこの場を与えて下さった方々の支えがあって、書き続けることができました。
多くの出会いに、この場をお借りしてお礼を申し上げたいと思います。ありがとうございました。
35歳を超えたあたりから徹夜がきかなくなり、ここ1年は運動不足がとりわけ身にこたえるようになりました。これから更年期と言われる年代に入るので、体を大事にして機嫌良く過ごしたいです。
最近、訳すのが数年前より速くなった気がします。仕事にすっと入れるようになりました。と同時に、いくつかの表現上の課題も抱えていて(to不定詞を上から訳すか下から訳すかといった、細かいテクニカルなことです)技術的にはまだまだ伸びる気がします。
40代もみっともなくない程度に、でも懲りずにあがいていきたいと思います。またどこかでお会いしましょう!
参考
ヴァルター・ベンヤミン、円子修平訳「翻訳者の使命」『ボードレール 新編増補 ヴァルター・ベンヤミン著作集6』1975、晶文社
豊崎光一「翻訳と/あるいは引用」『季刊 風の薔薇』第2号、1983、書肆風の薔薇(水声社)
村上春樹『1973年のピンボール』1983、講談社文庫
鴻巣友季子「ホンヤク棒高跳び」「翻訳対談 柴田元幸氏と」『翻訳のココロ』2003、ポプラ社
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